「二木啓孝は成田闘争で三人の警官を殺した」

 鈴木邦男さんが、かつて週刊誌に連載していた「夕刻のコペルニクス」の記事だ。読んで「え〜っ」。慌てて、鈴木さんに連絡すると例のほのぼのとした顔で「違うの?」「いや、違うもなにも…」「だって二木さん過激派だったじゃない」「確かにそうだけだったけど」「じゃあ警官を殺したでしょ」。コロシの真偽は別にして、なんだかウヤムヤにされてしまった。

 一九七〇年代半ば。私は左翼系の月刊誌「情況」の編集部にいた。鈴木さんが「腹腹時計と〈狼〉を出版して話題になり、「こんな右翼もいるんだ」と会いに行った。従来の右翼のイメージを崩された。そして「情況」に原稿を書いてもらった。若き木村三浩さんとも知り合い、木村さんには私が別の雑誌で連載していた人物記事に登場してもらった。

 当時のサヨクは四分五裂。私が所属していた天然記念物的な弱小党派は赤軍派などが世界に視野を広げるなか、秩父困民党や水戸の天狗党のような歴史をさかのぼる試行へと進み、密かに農本主義にロマンを感じていた。そこが新右翼の人たちとのシンパシーにつながったと思う。

 その後、私はサヨクを脱落して、左翼でも右翼でもない「(私利)私欲」となり、駄文ジャーナリストとなるのだが、それでも鈴木さんや木村さんとは、つかず離れずの交友が続き、政府批判の集会や会合でよく会っていた。

 正直に言って、鈴木さんの思考回路の変遷はよく分からなかった、いや私の理解の幅を超えていた。でも「邦男さんが言っているのだから間違いないだろう」と。つまり人間性を信頼していたのかもしれない。

 「言論の覚悟」。言ったことには責任を持つ鈴木さん。私は書いた記事に抗議が来るとすぐ謝ってしまうヘナチョコだけど、鈴木さんは譲れない主張には体を張って頑張っていた。多くの著作には連絡先として自宅の住所を書いていた。私はそれを、いつも「すごいなぁ」と眺めていた。

 病魔には勝てなかったけど、最期まで「言論の覚悟」を貫いた稀有な人として、私の心の中にいる。