鈴木邦男さんといつ出会ったのか。確たる記憶がない。どこかでごくごく自然にお会いして、各種の集会で「やあ」といった感じで何度もご一緒してきた。

 木村三浩さんとの出会いは、朝日新聞で統一教会や右翼を取材、批判していた臼井敏男記者とともに新宿で飲んだのがはじめてで鮮明に覚えている。鈴木さんとの出会いはなぜかおぼろなのだ。それが鈴木邦男さんという存在だったのだろう。いつも飄々として朴訥な人だった。生長の家の学生活動家(生学連)としての武勇伝を聞いていたので、意外な印象だった。

 だが一枚の写真が鈴木さんの「素顔」を垣間見せてくれた。個人情報保護法に反対する日比谷野外音楽堂の集会だった。壇上から、何かを叫びながら妨害勢力に鋭く指をさしている。とてもカッコいい。いつも心のなかには「対峙する精神」を秘めていたのだろう。まるでジョージ秋山さんが描いた「浮浪雲」のようだ。普段は茫洋としているように見えるが、いざとなれば鋭い刃が宙を舞う。「怖い人」がいるとすれば、それは鈴木邦男さんのような存在だったのだろう。

 断続的な交流のなかで消えない思い出が二つある。第一に、一連の赤報隊事件についてだ。私が静岡支局爆破未遂事件で、現場に遺留指紋があったことを「週刊文春」に書いたことを、鈴木さんは評価してくれた。ある時期には鈴木さんに会うと、赤報隊事件について、いつも質問をしていた。なぜなら鈴木さんは実行犯に名古屋のホテルで会ったと週刊誌に書いていたからだ。事実なのか創作だったのか。「どうなんでしょうねえ」といつもはぐらかされた。反応を楽しんでいるかのようでもあった。

 第二に、二〇一三年に東京・新大久保や大阪・鶴橋で醜悪なヘイトスピーチデモが常態化していたときだ。新大久保の現場へ抗議に行くと、そこに鈴木さんがいた。「日の丸が泣いている」と批判した鈴木さんと、日本外国特派員協会の記者会見で同席した。在日コリアンをあからさまに差別する言動に、鈴木さんは言論で真っ向から抗った。その原点には、極端な韓国ナショナリズムを煽る国際勝共連合=統一教会を「朝日ジャーナル」(一九八五年)で批判した真っ当な民族派の知性があった。

 鈴木邦男さんと最後にお会いしたのは、「噂の真相」編集長だった岡留安則さんが七一歳で亡くなり、二〇一九年三月三〇日に行われた「賑やかに送る会」の会場だった。私が持っている一枚の写真には、雨宮処凛さん、香山リカさん、私が立ち、座っている鈴木さんといっしょに収まっている。そのときの表情が虚ろだったことが気になっていた。ドキュメンタリー「愛国者に気をつけろ!鈴木邦男」が公開されたのは、二〇二〇年だ。東京での上映を逃した私は札幌の映画館で鈴木さんを記録した作品を見た。受け付けの女性は、「鈴木さんは東京と結んで会場のお客さんと交流するつもりだったんですよ」と教えてくれた。直前になってお世話をしている方から反対されたとも聞いた。

 それから三年。二〇二三年一月一一日の逝去を一月二九日に知った。「言論の覚悟」がいっそう求められている時代に、鈴木邦男さんが静かに去っていった。その精神を負うことはできるのか。