令和五年十一月二十四日、東京・新宿のワイム貸会議室高田馬場において、「三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼恢弘祭」が斎行され、全国各地から一六〇名が参列した。

 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫烈士、森田必勝烈士ならびに楯の会会員三名が、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室を占拠し、憲法改正を訴えた楯の会義挙から、今年で五十三年を迎える。
この義挙で己の生命を賭し、戦後体制に抗議した三島・森田両烈士の精神を後世に伝え、広める事こそが、「恢弘祭」の意義である。(編集部)

「森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」

 「恢弘」とは、辞典的な意味で言えば、「物事を広く押し広げる事」。三島由紀夫烈士は楯の会会員に対する最後の命令書で「森田必勝の自刃は楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と記されていた。

 森田必勝烈士と一水会創設者・鈴木邦男顧問は民族派学生運動の同志である。森田烈士が運動に導かれたのは先輩であった鈴木顧問の誘いによる。

 鈴木顧問は、先立たれた森田烈士の精神を受け継ぐ為、昭和四十七年五月三十日に一水会を結成。同年十一月二十四日に第一回目の「野分祭」を斎行した。

 「野分」とは森田烈士の辞世「今日にかけて かねて誓ひし我が胸の 思ひを知るは野分のみかは」から取られ、森田烈士の精神を受け継ぐという意味がある。

 野分祭は、一水会と他の友好団体と合同で斎行されてきたが、平成二十六年からは一水会単独での開催となり、「顕彰祭」と名を改めた。

 義挙より五十年目にあたる令和二年、三島烈士が遺した最後の命令書の一文より、「恢弘祭」と名を改め、現在に至る。

 一水会の運動を長らく牽引してきた鈴木邦男顧問は、今年一月十一日に幽界へ旅立たれた。後進一同、故鈴木顧問の言論重視を旨とする活動を継承し、更に展開してゆく所存である。

 三島・森田両烈士が目指していた「戦後体制の打破」「占領憲法改正」「日本の自主性の恢復」を果たす事こそ、両烈士への真の鎮魂となるであろう。

 恢弘祭が義挙当日である十一月二十五日でなく、その前日の二十四日に斎行されるのは、義挙前夜、両烈士が抱いていた「想い」を理解する為である。両烈士が何を想い、戦後体制という「壁」に向かって行ったのか。我々は理解しなければならないだろう。

 恢弘祭に、若い世代や女性の参加者が年々増えていることは、森田烈士の精神が些かなりとも「恢弘」されている証であろう。今後も引き続き、恢弘祭の斎行を通して、その意義を広めてゆきたい。

第一部・追悼恢弘祭

 午後六時半、司会を務める瀧澤亜希子氏が登壇し挨拶、次いで恢弘祭実行委員会より日野興作副委員長が「開会の辞」を述べ、本年度の恢弘祭は始まった。

 ここで司会進行は典儀である稲貴夫氏に交代した。稲氏の進行により、国民儀礼が行われた。
続いて「国歌斉唱」である。令和二年から四年まで、新型コロナ感染防止のため「拝聴」のみであったが、今年から解禁となり、国歌・君が代をまず声楽家の清水豊氏が一回独唱した後、繰り返し参列者全員で斉唱した。

 続いて皇居遥拝、先覚烈士並びに戦没者の御魂に対する黙祷が捧げられ、神道式祭儀に移行する。
斎主を務めたのは櫻井颯君。これを補佐する祭員と共に神職参進され、修祓、降神の儀、献饌が執り行われ、櫻井君による祭詞奏上に続いて、恢弘祭実行委員会・木村三浩委員長による
祭文奏上が行われた。

 次いで「英靈の聲拝聴」。「などてすめろぎは人となりたまひし」と、戦後社会を憂う三島烈士の言霊が会場に轟いた。

 そして三島烈士の「檄」を戸山國彦君が奉読し、両烈士の遺詠を塩入大輔君が奉唱。玉串拝礼では第二部記念講演の講師・藤井聡先生、次いで来賓から福島伸享氏(衆議院議員)、山口智氏(三島神社禰宜)、阿形充規氏(大日本朱光会名誉顧問)、前田日明氏(格闘家・昨年度恢弘祭講師)、本間達也氏(医療法人生愛会理事長)、小林興起氏(元財務副大臣)、高柳恵造氏(武徳館館長)、長谷川徹氏(元兵庫県県議会議員)、稲村公望氏(元日本郵便副会長)、そして木村委員長が参列者を代表して玉串を奉奠。木村委員長に合わせて参列者全員が二礼二拍手一拝を行い、両烈士の御魂に拝礼した。

 撤饌、昇神の儀を経て祭儀は恙無く執り行われ、神職退下をもって第一部・追悼恢弘祭は終了した。

第二部・藤井聡先生記念講演

 今年の記念講演は、京都大学大学院教授で安倍内閣時の内閣官房参与を務めた藤井聡先生を講師に迎えて行われた。

 演題は「三島なら、この令和の時代をどう生き、どう死ぬのか」。

 市ヶ谷台義挙の際、三島烈士は四十五歳だった。藤井先生は御自身を三島烈士に照らし合わせて、「自分が四十五歳の時に何ができるのか?」をテーマに、三島烈士の思いに応えようとして人生を過ごして来られたという。

 3・11の大震災を経験し、日本国家の「強靭化」の必要性を痛感された藤井先生は「国土強靭化計画」を携えて安倍政権に内閣官房参与として招聘され、国政に参画される様になる。

 安倍元首相が掲げた「戦後レジームの脱却」が、言葉は違えど三島烈士の精神と通底するものであると感じたゆえに、安倍政治に「戦後体制の打破」を期待し尽力されたが、消費税増税に抗議する形で、藤井先生は思い半ばにして安倍政権を去られた。

 結局、残念ながら安倍政権下では憲法改正は成らず、対米従属も変わらなかった。そして安倍氏は昨年七月八日、奈良県にて非業の死を遂げた。

 安倍氏は生前藤井先生に、「私はもう一度総理をやろうと思っている。三度目の政権では、藤井さんがやろうとしてできなかった事を必ずやるから期待して欲しい」と藤井先生に語っていたそうだ。
国土強靭化の計画にしても、国軍再建にしても、ネックとなるのは財政健全化を主張し、緊縮財政を旨とする財務省である。財務省もまた「戦後レジーム」である。日本が自立する道を辿る為には、財務省の支配を覆し、積極財政に転じるべきだと安倍氏は語っていた。

 果たして「第三次安倍政権」が誕生していたら、日本政治はどうなっていたのか。その答えは知り得ないが、彼を失ったことは藤井先生には痛手だった。三島・森田両烈士の遺志でもある、憲法改正、対米自立、日本の真の独立という命題を実現させる道筋が途絶えてしまうように感じられたという。
しかし、ここでめげてはいられないと「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」と三島烈士の言葉を借りて会場を鼓舞し、「僕が三島由紀夫の事を、人前でこんなにも滔々と喋ったのは生れて始めてです」と笑う。

 メリハリの効いた、大変な熱弁は「三島・森田両烈士の挙に対して、真心に対して、人生に対して、御魂に対して、一人の日本人として感謝したい」との言葉で締めくくられた。

 講演終了後、福島伸享衆議院議員、奥野信亮衆議院議員、西田昌司参議院議員、和田政宗参議院議員、鈴木宗男参議院議員(紹介順)から寄せられた祭電を司会が代読した。

 次いで坪内隆彦氏(『維新と興亜』編集長)の先導による聖寿万歳、恢弘祭実行委員会副委員長の番家誠氏による賛助御礼と閉会の辞が執り行われ、本年度の恢弘祭は滞りなく終了した。

どうすれば、両烈士の精神を「継承」できるのか?

 さて、本年度恢弘祭の当日に配られたしおりには、「英靈の聲」の一文が掲載されている。

 「英靈の聲」は、刊行された昭和四十一年当時の社会情勢を、霊媒師に憑依した二・二六の青年将校、大東亜戦争の特攻隊員が語るという内容で、語るうちに次第に強い批判に変じ、最後に「などてすめろぎは人となりたまひし」と呪詛を繰り返して終わる。

 戦後二十年足らずのころに発表されたものであるにもかかわらず、ここで語られる状況は令和の世でも変わっておらず、むしろ悪化していると言ってよい。

「大ビルは建てども大義は崩壊し」「その窓々は欲求不満の螢光燈に輝き渡り」

「朝を朝な昇る日はスモッグに曇り」「感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し」「烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ―」

 市ヶ谷台義挙が起こる前年、昭和四十四年に我が国はGNPで西ドイツ(当時)を抜き、世界第二位の経済大国となったはずだった。だが「昭和元禄」と言われた華やかな時代にも、このような不安要素が内在している事を、三島烈士は言い当てていたのである。

 そしてもう一つの「予言」、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであろう」―

 今や日本は「富裕」でも「経済大国」でもなくなっているが、日本が日本でなくなっている事も見事に「的中」している。

 恢弘祭で奉読された「檄」にはこう書かれている。

「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終はるだらう」―

 終戦から七十八年。日本の自主性は恢復されてないばかりか、国家理念を失い、米国の従属国に甘んじているのが、我が国の現状である。

 我々は「愛国者」の立場から両烈士の精神を奉じ、謙虚に、かつ堂々と、実質政治に反映される様、変革の声をあげなければならない。

 時間はかかるかもしれない。しかし明治維新が多くの志士の想いを継承させ、百年という年月をかけて成就した様に、「戦後体制の打破」という目標に向け、一歩ずつ前進して行くのだ。

 それが、三島・森田両烈士の精神を受け継ぐべく生まれた一水会の誓いである。

 改めて、今年度の恢弘祭に御支援、御参列頂いた皆様に御礼申し上げる。今後も更なる御支援、御叱責を賜りたく、伏してお願い申し上げる。(了)

(祭文)
令和五年度
三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼恢弘祭 祭文

 昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫・森田必勝両烈士が、戦後日本の現状を憂え、自衛隊東部方面総監室において、裂帛の気合と共に、伝統的作法に基づいて自刃を決行され、神上がり給いしより五十三年。二柱の御魂の御前に追悼恢弘祭有志一同、相はかり、相集いて謹み畏み敬いて申し上げます。

 三年前、三島・森田両烈士の「祀り納め」とも云うべき五〇年祭の大節目に、我々はそれまで「野分祭」または「顕彰祭」と位置づけて続けてきたこの祭典を「追悼恢弘祭」と改め、御祭を継続していくことをお誓い申し上げました。

 その理由の主眼には、三島烈士が述べられた次の言葉がございます。

 「今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」という、後継会員に宛てた三島烈士の命令書を尊重するからです。

 また、かつて第一回「野分祭」を呼びかけ、斎行した鈴木邦男顧問は、自分が民族派運動に導きながら先立たれた後輩・森田烈士への鎮魂の思いを晩年まで持ち続けていました。本年一月、鈴木顧問も幽界へ旅立たれましたが、後進一同、その無念と、生前の自問自答を継承してゆく所存です。
三島・森田両烈士の憂国の精神を広く遍く世に広め、実現してゆくこと、これが本「恢弘」祭の大きな本義であります。

 三島烈士があの日、命をかけて訴えたメッセージのうち最も重要な根幹、その本質は、昨今の猖獗を極める対米従属、日本自衛隊の米軍傭兵化を転変させることにあります。現下の世界情勢において、ロシアのウクライナへの自衛的軍事行動、パレスチナ・ハマスによるイスラエル・シオニスト政権打倒の試みという、実行力を伴った体制変革がなされていることは、まさに世界の多極化の表れで、米国の国力衰退を示すところでありますが、同時にアジア・ユーラシア地域では米国、米軍への肩代わり役として日本の対米従属の深化、日米安保体制の強化が図られているのです。これらの画策は日本の自立国家化を遠ざけ、ますますわが国を解体させるものと指摘せざるを得ません。

 今まさに日米安保体制、日米地位協定、日米合同委員会なる、わが国の従属的支配構造を打ち破り、憲法改正を断行し、日本国軍の創設と万邦協和の道を実現することこそ、両烈士の御魂に対する真の鎮魂となり得るでしょう。

 対米追従を決めこむ岸田政権は、日本国の主権と伝統的価値観に基づいた国家理性を発揮することができず、自主独立の気概なく、政治、経済、文化、教育、国民の誇りをすべて喪失させていっています。三島烈士の「日本が自主性を恢復しなければ日本は滅びる」とのご指摘は的中していると言わざるを得ません。

 我らは、三島烈士とともに、憂国者・森田必勝烈士が身命を賭して訴えたヤルタ・ポツダム体制打破の狼火が大火となるまで種火を残し続けるとともに、自らも微力ながら行動を展開し、両烈士の義挙を社会に開陳し、点から線に、そして面にする努力を怠らない決意です。

 また、この祭典を、お祭りのためのお祭りとしてではなく、日本を取り戻すための想起の日と位置づけ、両烈士の精神を恢弘し、必ずや真姿日本を取り戻していくことをここにお誓い申し上げ、祭文といたします。

 天翔ける御魂よ、雄々しき御魂よ、激動の世に憂国を念じる我らに、その霊力を与え給え。