頼りない西側諸国の指導者たち
先月行われたタッカー・カールソンによるプーチン大統領のインタビューは、非常に興味深いものだった。あたかも大学の講義であるかのように千年にも渡る歴史を非常に勉強になったことは言うまでもなく、なにより関心したのはロシアの大義とその正当性を歴史に基づいて語れるプーチン大統領の雄弁さだった。
これは一夜漬けの準備や側近に用意された原稿では到底不可能な、自身が標榜する汎スラヴ主義・ユーラシア主義を完全に内面化しているからこそ成せる技であろう。その主張に同意するかはさておき、これだけ任期を重ねても、なお国民から絶大な支持を受ける理由がよくわかる。
さて、これによりなお際立つのが西側諸国の指導者たちの情けなさだ。まともな意思の疎通もままならないバイデン大統領がその最もたる例だが、彼の場合は認知能力の衰えが主な理由であると仮定しても、自由主義陣営の為政者は老若男女問わず誰もが似たような普遍的かつ漠然とした現体制肯定のレトリックしか語れない。力による一方的な現状変更はどうの、民主主義に対する挑戦がこうのという言論には(力によって他国の主権を踏みにじり、一方的かつ非民主的に現状変更を絶えず行ってきた米国やNATOが言えた立場でないのは無論のことだが)歴史の否定と革新の拒絶が内包されている。すなわち人間の意思を挫く、弱い言葉なのだ。
そしてこの弱さは言論だけには留まらない。貧弱で曖昧な言葉を使う者は必ず行動もそれに伴う。国家主権を護る為に、膨大な犠牲を覚悟の上で行動に踏み切ったプーチン大統領と、アカデミアや利益団体が広める有害な思想と大量移民とによって自らの国家と民が根底から解体されているのに、何一つ現状を変えようとしないどころか、民族と国の破滅を歓迎する西側諸元首たちではまさに天と地の差だ。
リベラリズムの呪いが国家主権を奪う
では、なぜ西側諸国の指導者たちは弱いのだろうか。それは一重に西側諸国が崇拝するリベラリズムが国と指導者を弱める思想を内包しているからである。社会自由主義であれ経済自由主義であれ、リベラリズムは、個人こそが至高の存在であり、あらゆる共同体や政治組織は個人のために存在し、個人の消極的自由は妨げてはならないという前提がある。
すなわちリベラリズムにおいて国はサービスであり、民はお客様なのだ。国はサービスであるが故に顧客である民に要求をすることはご法度であり、人種・民族・国籍問わず全人類の要求を受け入れ、それらの利害を可能な限り個人の消極的自由を侵害しないように調整しなければならない。
そう考えると、弱い指導者ばかりなのも理解できるだろう。強い指導者は国を統一し、絶えず敵味方を判断し、状況に応じて民を統制・動員することが出来なければいけない。しかしそれは必然的に個人の消極的自由を奪うこととなり、排他的要素も含んでいるため、リベラリズムの教理に反するのである。欧米の場合は更にいまだ拭えぬホロコーストの歴史的トラウマが加わり「強い指導者=大量虐殺の再来」という思考に至ってしまう。故に権威は悪であり、国家主権の発揮は危険であり、それらを行わずにひたすら人類普遍的価値観を標榜し超国家的権威の前にひれ伏す元首が理想とされてしまうのである。
指導者に「強さ」は必要なのか
ここまできて、一つ疑問に思うことがあるかもしれない。それは、そもそ間もなぜ「強い指導者」が必要なのかと。プーチン大統領の例をとっても、彼が強い指導者であるがために昨今の侵攻が行われ、両国が多くの死者を出しているのではないかと。むしろ国や指導者は弱く、全人類が普遍的な自由主義的価値観を共有し、手を取り合って生きていける世界を目指すべきではないのかと。このような疑問は、西側諸国の主流思想であり、リベラリズムの必然的帰結点である社会自由主義の誤謬が生み出したものである。
社会自由主義は「人間は本来平和を望む善良な生き物であるものの、支配欲に満ちた悪い人間にたきつけられ争い合ってしまう」という性善説が内包されている。その世界観においては、たしかに強い指導者は私利私欲のために争いを起こし民を犠牲にする悪人なのだ。しかし、真実は程遠い。イマヌエル・カントが著作の『永遠平和のために』にて「戦争はあたかも人間の本性に接ぎ木されたかのようである」と書いたように、人の歴史は争いの歴史であり、平和な時代のほうが珍しいのは明白だ。人間に限らず、この世の資源が有限である以上、あらゆる生命の性は、種の生存を賭けた資源の奪い合いであり、その本能は我々の最も原始的な部分に刻まれている。故に平和とは、いわば二人の人間がそれぞれお互いに向かって銃を構え、引き金に指を載せている状態である。少しでも気を緩めれば、よそ見をすれば、弱みを見せれば、間髪入れずに撃たれてしまう。その拮抗こそが平和であり、国が銃を構える役割を担っているからこそ、その後ろで民は自由を享受できている。
これは戦争や無秩序な争いを肯定するものではない。国である以上、国難や有事、国家主権への挑戦などが訪れるリスクは必ず存在し、それを乗り越えるために、指導者の一存で民や国土を犠牲にする必要も発生するものである。その暁に理想論ばかり並べて然るべき行動を取れない、より大きな善のために民の命を賭す覚悟を持たない指導者など、国にとって有害でしかない。むしろ、平和が人間にとって異質な状態であり、弱さや迷いこそが争いを生むという事実を民も指導者も理解していてこそ、現実的に平和を維持する方法を議論できると言えよう。
米国覇権による国際秩序の本音と建前
皮肉なことに、西側諸国の国々は自由と平和に統制が不可欠であることを十分に理解している。故に建前ではリベラリズムを標榜し、国の元首に弱い指導者を立て、自由の定義を物質主義・享楽主義的世界観に基づいた消極的自由にまで狭めることによって、建前上は人間の性は自由で平和なものであるという社会自由主義的理想論を維持しする傍ら、人間を経済単位として一元化するグローバリズムを推し進め、超国家的権威たる国際金融資本に力を集約し、国の主権を奪って強固な統制を敷いている。歴史上もっとも巨大かつ反人間的な全体主義・権威主義的システムを、リベラリズムのオブラートに包み隠しているのだ。
しかし、この欺瞞に満ちたシステムが世界の国々と人類を絶えず蝕んでいる。まず、イラク、リビア、シリア、ロシアなど米国中心の超国家的権威を否定し自国の主権を維持しようとした国は絶えず米国の経済制裁・破壊工作・武力介入といった暴力に見舞われている。反面、その権威の前に跪こうものなら、社会自由主義が内包する個人主義により国民の精神を蝕まれ、経済自由主義によって共同体を徹底的に破壊され、国土は移民で溢れかえり、やがて文化も民族も歴史も持たない、原子化した経済単位としての個人のみが存在する、おおよそ国とは言えないただの経済地域へと衰退していく。
この欺瞞を推し進めてきた米国が「嘘の帝国」と揶揄されるのも頷けるであろう。彼らは権威と力の拠り所を歴史と国、すなわち血と土から、国際金融資本にすり替え、それの実態を人類普遍的な価値観と定義したリベラリズムで覆い隠して世界の国々を破壊してきたのだから。
未来を担う強い指導者は、民の意志から生まれる
故に、世界はかつてないほど強い指導者を必要としているのだ。この破壊的な力を前に、たとえ犠牲強いてでも国と国民を守れる指導者が。
プーチン大統領の理論に同意しかねる部分は少なくない。例えば、彼は自身の行動を「非ナチ化」という戦後のリベラル・デモクラシー史観に染まった主張で正当化しようとしているが、そのようなレトリックは、最終的にリベラリズムとそこに伴う超国家的権威に飲まれる危険性を孕んでいる。しかし、圧倒的な敵を前に国家主権を維持しようとする覚悟は、西側諸国の指導者が決して持ち得ない、評価すべき点である。
このような強い指導者が各国に現れ、民を束ね、国がただの政治組織ではなく、己の意思を持つ有機的な連続体であるという本質を明らかにすることにより、はじめて各国が独自の民と文化と歴史を恢復し、それぞれの国土にて特色を発揮できる、より良い明日へと繋がっていくであろう。
しかし、待っているだけではこのような指導者は産まれない。いかなる時代もどのような政体においても、指導者は何らかの形で民意を体現しているのだ。すなわち、我々国民が善を渇望し、不義や欺瞞を憎み、国の主権を護り民族の歴史を未来へと繋ごうという強い意志で自発的に行動できるようになってこそ、そのような民意を包括し、国を正しき方向へと導ける指導者が現れるのだ。
世界を変え、真の自由をもたらすのはリベラリズムという有限なる偽りの神を信仰してより深い自己欺瞞に堕ちることではなく、人としての原点に立ち返り、家族、民族、国、歴史と一体になって真実と善を追求することなのである。
画像出典:首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/content/20220523usa_13.jpg)