〜「カルト規制のため政教分離を徹底しろ」? 逆だ!〜

「反カルト法」の無理筋

⑤フランスの「反カルト法(正確には『反セクト法』)」を日本にも取り入れるべきだ!

→これも最近メディアやネットで盛んに見かけるようになった言説の一つである。
日本と並び、そして欧米でも突出して政教分離を徹底しているとされる(つまりフランス以外の欧米諸国は、日本ほど政教分離には煩くない。そしてそれらの国々には、フランスほど厳しい反セクト法は無い、という事実も覚えておいていただきたい)かの国において制定された法律であるだけに「良心的進歩派」を自称する連中に、この主張の支持者は実に多い。(賠償金逃れのため)現在はフランス在住の巨大匿名掲示板サイト『2ちゃんねる』創始者である西村ひろゆき氏もその一人だという(どうでもいいがこの人、統一教会の問題になった途端、なんであんなに熱くなるんだ? 普段は人間の値打ちを「頭が良い」か「悪い」かだけでしか判断しないようなこの人物なら「カルトに騙されるなんて頭が悪い!」の一言で済ませそうなものだが)。

 だが残念ながら(日本では殆ど報道されていないが)この法律、当のフランスではほとんど機能していないのが現状である。

 カルトとそうでない宗教との区別など絶望的に困難なのは先月号でも指摘した通り。下手すれば信教の自由にも抵触する。だからフランスの反セクト法では、宗教の教義ではなく「人権を抑圧しているか否か」をセクトの定義として一〇種類の判断基準を示している。

 一見、これは良い定義付けに思える。事実この基準なら、宗教団体に限らずマルチ商法や代替医療、自己啓発セミナー等も対象に出来るからだ。

 ところが、である。

 この「あまりにも広過ぎる定義」こそが、この法の適用を極めて難しいものにし、今までこの法律に基づいて解散命令を出せた団体は一件も無い(!)という滑稽な状態に陥らせてしまっているのだ。
例えば特定の団体に限らず、国や企業が法律や契約で縛るのも極端に言えば「人権侵害だ!」と主張する事もこの法律の定義では可能になる。また過激なキリスト教原理主義者が、イスラムの文化すら否定して法律で制限した事件に見られるように(イスラム教徒の女性が顔を隠す「ヒジャブ」の公共の場での着用を、「政教分離」を理由にフランスで禁止された騒ぎは日本でも報道された)、宗教を取り締まる国家機関(MIVILUDES)や影響力の有る大宗教が、この法律のセクト定義を悪用して気に食わない宗教や文化を規制する動きすらあるのだ。

 実は日本でもオウム事件の時、日弁連が作った「宗教的活動にかかわる人権侵害についての判断基準」という反カルト法と内容が似たものが公表され、これを基にした宗教規制法の可能性について議論されたことがあった。

 ところがこの基準だと禅宗や真言密教のような既存宗教までもが「カルトの定義に抵触してしまう!」と騒ぎになり、結局有耶無耶になってしまった経緯がある。つまりそれほど法律で宗教を規制するというのは、困難極まりない事なのだ。

意外な人物が語る「社会における宗教の役割・機能」

「では、どうすれば良いとお前は思っているのか?」

 この質問に答える前に、先月号で「この問題については次回後述」と書いた点について触れておきたい。

 実はその直前に私が書いた「(宗教は)社会的に絶対必要不可欠な公益的存在」という当然の認識に対する異論が、ネット上の無神論者からは、多数噴出してきているのだ。

「昔は宗教が福祉や治安を支えていた。それ無しでは国が成り立たなかった。今やそれらの機能は国家のサービスに代替され、宗教の必要性は極端に低下している」

「(収入の少ない弱小の寺や神社に)そもそも普通に税金取ったら潰れるぐらいなら潰せばいい。必要とされていないってことだよ」

「(寺などの宗教施設は)地域コミュニティでの役割も最早ない。少子化で確実になくなる。観光地程度の意味しかなくなるだろう。観光資源にならないところは放置で良いだろう」

 今回の騒ぎで浮き彫りになった宗教に関する現代社会最大の問題は、実はこの点にあると私は思っている。

 昨年三月の第二一九回一水会フォーラムで講師を勤めていただいた小川寛大『宗教問題』編集長も、その時の講演「日本の神々は怒っている」の中で、この問題に触れられている(詳しくはレコンキスタ令和三年四月号掲載の「講演録」を参照)。

 果たして現代社会において、もはや宗教は必要とされない存在となりおおせてしまったのであろうか。

 ……実はこの論文は、あまり取り上げたくはなかった。何故なら初出が『第三文明』平成二三年一一月号という、バリバリの創価学会機関誌だからだ。

 だが逆に言えば、そんな邪教でもこの程度の社会的貢献は十分に果たせるのだという何よりの証拠なので、不本意ながらここに紹介だけさせていただきたい。

「共同体が崩壊した日本にあって信仰に基づく連帯が持つ可能性――社会における宗教の役割・機能について」執筆者はなんと、ご存じ宮台真司教授である。

 その内容については今後、穂刈純一郎君が来月号からこのコラムで復活させる「新・民族派経済学の探求」の中で語っていくそうなのでそちらに譲るが、ここで急いで指摘しておきたいのは、この論文が示した「可能性」こそが、先に「覚えておいていただきたい」と指摘した「事実」とも関連して、カルト宗教を撲滅させる、決定的契機ともなり得るという点である。
(この項終わり)

【月刊レコンキスタ令和四年一一月号掲載】