「平成改元」前後、「偽日本社会」の「第一権力」たる「反日マス・メディア」以下、内外の「反日勢力」は、一斉に「我國」の「脱日化」「非日化」「反日化」の圧力を強めた。其の一環として、「元号排斥追放」の社会傾向が顕著に発現した。
「元号」が現用されて居るのは、「日本」だけで有り、其の古来「朝廷」が策定して来た「歴史紀年法」を抹殺すれば、精神文化的に「日本民族滅亡」「國體破壊」に直結する。
当時の「反日勢力」が、「元号」を「クリスト生誕紀元」即「西暦」に置換する圧力を強めて居たので、愚生は近畿在住の幾つかの愛國団体と共に「元号を護る共闘会議」なる組織を結成して、「元号護持」の為に、積極的に「マス・メディア」「官公庁」「企業」等への啓蒙啓発警告活動を実行、実践した。
数年後に更に運動を深めようとして、従来の組織を発展的に解消し、新組織の名称を思案した時に頭に浮かんだのが、「鈴木邦男兄」が主宰する「一水会」で存った。
鈴木兄本人から聴いた訳では無いが、傍から観て居ても、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の自由な組織運営に共感を抱いて居たので、敢えて新組織名を「一日会」と命名した。
毎月第一水曜日に開催して居たが故に「一水会」と名付けられた様に、第一日曜日に開催するから「一日会」と謂う単純な名称で現在に至って居る。
「鈴木兄」との邂逅は、「無政府主義」系の所謂「山根弁護士裁判」支援の頃からで遇ったかとも想うが、長い付合いなので記憶が定かでは無い。
学生時代には会った事は無いが、昭和五十年代から、半世紀に近い交友は、正に「君子の交わりは、水の如し」と表現すべき淡々としたもので存った。
共に「人付合い」が余り好きでは無く、独りで思索や「読書」、著述、趣味等に興じる方なので、世間に良く有るベタベタした「親友付合い」をした訳では無い。
だが、常に其の存在を意識して、お互いに敬意を払い続けて来たと勝手に自負して居る。
兎に角「読書家」で、蔵書が「三千冊」有り床が落ちるので「みやま荘」の二階から一階に部屋を替えたと聞いた事が有る。
「読書術」の著述も有る。
「文武両道」で、「露西亜武道」の道場へも定期的に通って居られた。
「楯の会」出身の「阿部勉兄」と同様に、「東北地方」出身特有の純朴で誠実なお人柄には常に信頼を寄せ、「鈴木兄」も其れに応えて、帰幽する迄、愚生との信義を忠実に厳守された。
「民族派活動家」として、在野の「草葬の志士」として、生涯を生き抜いた「鈴木兄」には、次世代で「邦男小学校」が命名される事を期待したい。
幕末「安政の大獄」で刑死した、当時全く無名貧困の「梅田雲浜」は、福井県小浜市で「雲浜小学校」として、其の名前を遺して居る。
愚生は、予てから「日本民族に死は無い」と確信し、発言して居る。
個々の「身体」には、「自然の摂理」に従った寿命が有る。だが、其れは「生物」として当然の「容器の交換交代」に過ぎない。
「質量を持つ」即「物質(肉体の一部)」としての「遺伝子」は、「直系」「傍系」を問わず、必ず、「遺伝」「再生」し続けるので有る。
問題は、其の「遺伝子」の「資質」で有る。現下、「偽日本社会」で、「反日洗脳」に罹患して居る「反日・偽日」の愚民大衆の遺伝子にも、「民族的感性資質」は潜在して居る。其の「潜在的資質」を如何にして「顕在化」するかが愚生等に与えられた責務で有る。まして、「民族派の星」たる「鈴木邦男大兄」は、決して死んでは居ない。
現に、愚生の胸裏に「民族的遺伝子」として生き続けて居られる。
過去無数の「殉國の英霊」と共に、「鈴木兄」の御霊は、「日本民族悠久の大義に生き続ける」ので有る。
(令和五年如月九日、懐旧述懐)