鈴木邦男さんと初めてお会いしたのがいつだったのかよく覚えてはいない。文芸雑誌『群像』の新人評論賞で佳作となり文芸評論を書き始めた二十代であったと思う。三島由紀夫の自裁が自らの人生に決定的な影響を与えたことは、鈴木さんが新右翼の思想と運動を、この国の戦後という倒錯の時代の混沌のなかで切り拓いていき、筆者にとっては文芸批評の道を歩いていくきっかけになった点で、世代の違いこそあれ、共通の出来事であったと思う。だからシンポジウムなどでお会いする機会には、いつも三島及び三島事件がテーマとしてあった。

 そして最後もまた三島由紀夫であった。二〇一九年、平成から令和ヘの御代がわりがあった年、筆者が館長をしている鎌倉文学館の春の特別展で『三島由紀夫「豊饒の海」のススメ』という展示をやっていた折、鈴木さんが突然、眼前に現われたのである。週に一度くらいしか文学館にはいなかったが、その日受け付けから「鈴木さんという方がいらっしゃいました」と連絡を受けて玄関に上がっていくと、そこに鈴木邦男が立っていたのである。驚くとともに一瞬で深く納得した。鎌倉文学館は加賀百万石の前田家の別邸を建物としており、三島は『豊饒の海』第一巻『春の雪』で主人公の松枝清顕の別荘のモデルにして描いている。展示をいただいた後で、ふだんは立ち入ることのできない三階の部屋を案内した。松枝侯爵の「終南別業」から、三島が描いたままの風景を見てもらいたかったからである。

 《南面するテラスからは、正面に大島がはるかに見え……》と作家は描いているが、その日も陽に輝く由比ヶ浜の海の向うに大島が眺められた。『豊饒の海』のまさに舞台に立って、鈴木さんはしばしその明るい景色に魅入られたように佇んでいた。市ヶ谷の事件から間もなく五〇年、半世紀の歳月が過ぎようとしていたが、その長くもありまた短くもあるこの時間は、鈴木邦男の思想の戦いの時々であった。三島自決の五年後に、東アジア反日武装戦線の八名が逮捕されたのを受けて書かれた『腹腹時計と〈狼〉』のあとがきで、鈴木邦男は次のように記している。

《この本を通して一貫して考えてきたのも〈国家〉不在の戦後日本ということであり、それを撃つための戦列を組んでゆかねばならないということだった。敗戦後三十年間の〈意味〉が今問われている。右翼と左翼という形ではなく、三十年間の〈虚妄〉を死守せんとする者と、その破壊に命をかける者との熾烈な闘いが開始されている》

 この〈虚妄〉の戦後は、八〇年の歳月を経てもこの国の根本を覆いつくしている。今日いわれるところの「保守」は、この〈虚妄〉の体制側にあるといってもよい。だから鈴木邦男は「その破壊に命をかける者」としての「熾烈な闘い」を展開し継続していった。それは「保守」と「リベラル」という今日の不毛な虚構の対立そのものを破壊し、戦後を真に超克するための「新右翼」の血戦であった。この『腹腹時計と〈狼〉』が上梓された昭和五〇年という年は、三島が『豊饒の海』の最後で描いた月修寺の夏の庭が設定された年である。その「無」の時空こそ、この国の〈虚妄〉を打ち破るために作家が描いたものであった。鈴木邦男さんと最後にお会いした、あの鎌倉文学館での須臾の時間を今、思い起こしつつ、この比類なき思想戦士の死を悼むばかりである。