一月二六日、木村代表より一月一一日に鈴木さんが誤嚥性肺炎で亡くなられたことを知らされた。その日から日が経つにつれて喪失感が増している。
二〇一八年七月八日、西日本大災害当日に「レコンキスタ読者の集い」が重なってしまい。中止となってしまった。しばらく体調を崩されていた鈴木さんが岡山の大会からまた元気を出して再起を図ると思われた矢先の中止であった。実は、岡山入りする当日は、かねてより望まれていた「津山三〇人殺し」の現地視察を計画していた。何度か計画するもいつも中止になっていた。とても残念がってたことを思い出す。朝から「大雨警報が出てますから今日は中止にしますか?」との問いに、「一人でも来て話を聞いてくれる人がいる限り僕は岡山へ行くよ」と朝一番の新幹線に乗り込んで来てくれたことを思い出す。
鈴木さんとの最初の出会いは、香川県で民族派大同団結を目指した集まり、たしか、「維新懇話会」という集まりの時だ。私がまだ大学生だったから四三年前になる。
その後、私は、学生を中心とした憂国青年連盟の代表から、一水会の実態見聞と勉強を兼ねて東京へ行けと指令を受け、一水会の高田馬場にあった事務所で修業することとなった。
かの有名な焼鳥屋宝来屋の二階で寝泊まりした。朝からニンニクを茹でて食べてる元自衛隊員、事務所へ来たら「昨日来た?誰が?北一輝、時々来るんだよな」と真顔で言う元極左(見沢知廉)。皇居の堀を泳いでよじ登ったら警察に捕まっちゃったよという人。朝から電話してきて「私はゴルゴ13だ、だれを仕留めればいい?」という迷惑電話。修業は大変だった。そんな中、鈴木さんには、田舎者の私を色々連れて歩いていただいた。他団体の食事会、見たこともない料亭料理をみて恐縮してると「番家君食べて帰って、僕は先帰るから」とおいていかれたり、どこへ行くかも告げられず古びたアパートの一室へ、連れて行かれて、カーテンは閉じており、部屋の住人が、「向かいの窓から公安が見てるから少し暗いけど我慢してね」と語る。その人物はなんと竹中労氏であり、鈴木さんに昨日、アラブから帰ったばかりの活動家の方を紹介していた。また、薄暗いバラックのような事務所へ連れていかれたときなど事務員さんが寒いのに素足で歩いてる、一番偉そうな方が「おい、すずめ」、「おい、カラスお茶入れて」とすべて鳥の名前で呼び合う怪しい事務所、今もどこだったのか謎だ。
当時の鈴木さんは、反権力志向が強かった。二人で高田馬場駅を下りて事務所へ歩いていると鈴木さんがふと消えた。慌てて見回すと路地で鈴木さんが男を取り押さえて「お前は誰だ?公安か?公調か?」と問い詰めている。また、池袋サンシャインビルのエレベーターの中、満員のなかで一人の男の首根っこを捕まえて「皆さん、この人は私たちが何も悪いことしてないのについて回る悪い警察官です」と晒していた。晩年の鈴木さんからは考えられない姿だろう。
そんな鈴木さん、夕方になると事務所へ帰って原稿を書くのが日課のようだった。「腹減ったなー」と思っていたら鈴木さんが五〇〇円出して「番家君パンを買ってきて一緒に食べよう」と。これにはびっくりした。もうすでに右翼業界では有名な方が夕方にパンの晩御飯。右翼活動家駆け出しの私は悟った、右翼は、「反権力でストイックでなくっちゃ」と。そして、組織ごと一水会へ加入し一水会岡山が誕生した。
鈴木さんにはよく言われた。「活動家は、ビラ張りができて、演説ができて原稿が書けて一人前だ! 一ヶ月一冊は本を読め」。残念ながら今だに達成できていない。
鈴木さんとの思いでや教えられたことはいっぱいありすぎて書ききれない。死を受け入れようとすると行き詰る。もう少し、鈴木さんの死を受け入れられたらどこかで書いてみたい。
鈴木さんと最後にあった日を思い出した。たしか、二〇一八年、その年の三島・森田両烈士顕彰祭だと思う。会場の一角に弱弱しく座っていて挨拶したら「やー番家君来てたの遠いとこ偉いね」毎度、同じねぎらいの言葉をいただいたが、いつも心地よく感じるのにあまりにも鈴木さんの衰弱した姿に戸惑いを感じた。そしてせめて元気づけようと、「鈴木さん、来年津山三〇人殺し行きましょうね、案内しますよ」と励ましたのが最後になった。
謹んでご冥福をお祈りします。