鈴木邦男さんを初めて見たのは一九九〇年代「朝まで生テレビ」だったと思う。右翼だというのに意外にもリベラルな発言が印象的だった。
二〇〇〇年代、「和歌山カレー事件」の大阪集会などで、生の邦男さんを見かけた。なぜ右翼が「和歌山カレー事件」の支援をしているのだろうかと不思議だった。三浦和義さん急逝の後、気が付いたら邦男さんが、「林眞須美さんを支援する会」の代表になっていた。
緊張しながら初めて声をかけさせていただいたのが二〇一三年ごろ、警察関連集会の二次会だった。ボクの名刺を見て「アッ」と邦男さんが声をあげた。「上高田? 同じ上高田じゃないかぁ〜!」。その後、ユーチューブで邦男さんが、「日の丸・君が代の強制はよくない。みんなが自然と歌いたくなるような立派な国にする方が先ではないのか」と言っていた。右翼なのに相変わらず良いこと言ってるじゃないか!と思った。
そこで、二〇一四年二月、ボクが属している「国賠ネットワーク」という市民団体の交流集会に来てもらえないかとお願いした。記録的な大雪の日の午後、スタッフよりも早く邦男さんが会場に来てくれていた。
二〇一五年八月、それまでの一水会の活動総括を邦男さんが報告する一水会フォーラムがあった。ところがこともあろうに、サービス残業をしていたボクはすっかり忘れてしまっていた。痛恨の一大事。後悔しても後悔し切れなかった。
しかし、である。翌日午後、職場の窓口で当番をしていたボクの目の前になんと邦男さんが現れたのだ。ボクは、対応していたお客さんをさしおいて立ち上がり挨拶をしていた。「ちゃんと仕事してんじゃないかぁ〜!」と邦男さん。「関西・鈴木一門の会」邦男ガールズの一人N・Mさんが一緒だった。「昨日のフォーラム来るって言ってたのに来なかったから、どうしたかと思って先生と一緒に来ちゃった!」とN・Mさん。なんとも嬉しい限り、驚きであり恐縮だった。
それからというもの、何かとお声がけいただき、あちこちでのイベントに同行させてもらった。普段は行き会えない人々、たとえば、元首相・鳩山友紀夫さんとか俳優の石田純一さんとか。そういえば、「(時間がないこの時に)石田純一と名刺交換するとは大したもんだよ」某編集長S氏にお褒めの嫌味な言葉をいただいたっけ。
二〇一七年、『天皇陛下の味方です』(バジリコ)、『憲法が危ない!』(祥伝社新書)を続けて上梓した邦男さん。前者の帯には、「人は右翼というけれど、中国人と朝鮮人をやっつけろというのが右翼なら、(中略)、そして『愛国』を強制するのが右翼なら、私、右翼ではありません」と痛快なるコピー。「東大の先生が書評を書いてくれたんだよ!」と喜色満面の木村三浩代表。後者は、若き日々、憲法を目の敵にして、その改正運動に取り組んできた鈴木さんだからこそ書けた本だ。林眞須美さんの再審請求鑑定人を務めている河合潤さん(京都大学大学院工学研究科教授)が「読みやすい。わかりやすいですね♪」と付箋をつけながら読んでいたのには驚いた。
ここ数年、邦男さんに同行しながら、人に実際に会ってみたり現場を訪問したりすること、そして読書することの大切さを教わった。「岩波新書、全部読んでみたら!」と言われたことを思い出す。いつ達成できることだろうか。
今後、邦男さんの遺志、いわば「理論と実践」の重要性を承継し発展させ、微力ながら社会に貢献して行きたい。