鈴木邦男さんと初めて会ったのは一九九四年の秋だった。もう三〇年近く前になる。当時、私は二五歳の駆け出し編集者、五一歳の鈴木さんは民族派団体「一水会」の代表だった。鈴木さんの連載コラム

 「夕刻のコペルニクス」が始まったのは週刊SPA!の一〇月一二日号だ。以来、七年続く。病休の一年弱を除き、最初から最後まで、私はずっと「鈴木番」だった。

 初回のコラムで鈴木さんは「長い間、民族派運動(いわゆる右翼運動だ)をやってきた。(略)それ以前は宗教運動にどっぷりと漬かってた」と振り返り、「右翼・左翼といった集団思考からは脱して、一人の人間として考えてみたい」と宣言した。

 独特の癖字を読みながら感激した。半世紀かけて積み重ねてきた思想信条を、一度白紙に戻そうというのだ。並大抵のことではない。この人のことを知りたいと、強く思った。

 どこにでもついて行った。何時間でもつきあった。あの頃、家族よりも交際相手よりも鈴木さんと一緒にいた。右翼・民族派はもちろん、左翼や新左翼、政治家、芸術家、武道家、宗教家……。鈴木さんは誰とでも会い、私にも紹介してくれた。黙って話に耳を傾けて、時折、小さな紙片や割り箸の袋に短いメモを取る。たったそれだけで、原稿では見事に話や場面が再現されていた。

 コラムでは、時に誰かの急所を突いた。やや筆が滑ったこともある。左右両翼から何度も抗議を受けた。筆者と編集者は一蓮托生だ。初めの頃は狼狽えた。逃げたかったが、鈴木さんは自著に自宅の住所と電話番号まで載せている。

 「大丈夫。大抵は命までとられませんから。怒られたら謝ればいいんです」と飄々と笑っていた。実際、誠意をもって謝罪すると、多くの人はその場で矛を収めてくれた。のちに力を貸してくれた人もいる。

 人脈も、取材の作法も、敵を味方にする術も、鈴木さんから教わった。曖昧な理由で連載が打ち切られた後、様々な事情も重なり、私は出版社に辞表を出した。転職したのは朝日新聞だ。今度は記者として、鈴木さんに関わりたいと思ったが、長く地方の傍流を歩み、ついぞ願いは叶わなかった。家庭の事情で一昨年、私は朝日新聞も退職した。

 編集者・記者として、曲がりなりにも三〇年間、活字の世界でやってこられたのは、鈴木さんのおかげだと思っている。大きな借りを、私は一つも返せていない。

 最後に鈴木さんと会ったのは、二〇二〇年の冬だった。げっそりと痩せていた。体調を崩し、病院や施設で過ごしているのは知っていた。回復を祈っていたが、コロナが流行り、見舞いに行くのははばかられた。

 鈴木さんは初回のコラムで「五〇歳から世の中のことが見えてくると思う」と書いている。私は今、五三歳だ。当時の鈴木さんを年齢で追い越した。なのにまだ、何もわからない。

 「鈴木番」として必死で追いかけ、その後も遠くから眺め続けた。鈴木さんには何が見えていたのだろう。知りたかった鈴木さんは、もういない。