二十五年くらい前になるでしょうか、元赤軍派議長の塩見孝也さんの政治運動の手伝いみたいなことをしていた時期があります。「日朝平和条約の締結」「東アジアの残存冷戦構造の打破」「よど号グループの帰国」というのが当時の塩見さんのメインテーマでした。一九九一年に旧ソ連邦の崩壊がありましたから、東アジアに残っていた日米韓と中朝の対立も融和に向かうかもしれないという希望が高まっていた頃でしたので、それは取りあえずいいことだろうと若い僕には思えたのです。実際、そのような機運の中、二〇〇二年には小泉首相の訪朝も行われています。
しかし、当時の塩見さんの政治活動は困難を極めていました。かつて赤軍派が採った軍事路線が連合赤軍事件にまで行きつき、その結果、大衆の支持が新左翼運動から失われたという見解を持つブント(=共産主義者同盟 ※赤軍派はブントの分派)のOBたちは多く、一部の人たちを除いては、新左翼界隈からは総スカンを喰っていたといっても差し支えないような状況にありました。そのような中で、『新宿ロフトプラスワン』は塩見さんにも発言の機会を積極的に提供する数少ない場であったのですが、そこで人気出演者の一人であった鈴木邦男さんと塩見さんは急速に縁を深めていくことになります。
もともと、一水会の主張と塩見さんの主張が「東アジア融和」「対米自立」という点で重なり合っていたことが、両者接近の第一の理由であろうとは思います。それに加えて、一水会や鈴木さんの中には「左右の別なく、歴史変革のために身命を賭する」跳躍するような人格、いわゆる烈士的な人物に対する尊崇の気風があったため、革命闘士であった塩見さんを一定の敬意を以て遇したことが、当時、政治的に無視・排除されることの多かった塩見さんの琴線に触れたというようなことはあったかに思います。当時鈴木さんが『週刊SPA!』に連載していた『夕刻のコペルニクス』では、塩見さんは面白おかしく書かれることが多く、「また鈴木さんは俺のことを茶化しやがってよう」と、よく塩見さんは怒っていましたが、今考えれば、あれは世間に対し塩見さんの存在をことさらに紹介していこうとする、鈴木さんの義侠心と友誼心からの文章だったのだなと感じ入ります。
当時の塩見さんは、自分を、時に議論の対手、時に政治的協力者として認める鈴木さんに対し、強く親愛の情を感じていたようでしたし、鈴木さんとの対話、議論はことのほか好んでいたようでした。。塩見さんが天皇制や資本主義に対する見解について議論を求めたときには、何回も何時間も、鈴木さんは喫茶店での討論に根気強く付き合ってくれていたようです。
「よう鈴木さんよう、待っとったぜ。議論の続きをしようじゃないかよ」
天上なのか黄泉の下なのかはわかりませんが、鈴木さんと塩見さんとの再会の時は、塩見さんのこんな一言から始まるような気がします。鈴木さんは苦笑いしながら、塩見さんの議論に付き合ってあげることでしょう。