すがすがしい人だった。清貧の人だった。鈴木邦男さんが亡くなられたとの連絡を電話で受けた時、あの笑顔と訥々とした語り口が脳裏によみがえってきた。語るべきことを語り、聴くべきことを聴く。右とか左とか関係ない。要は、ちゃんとした人かそうでない奴かだ。

 フェアな人だった。相手の優位に立つことばかりを考えて、むなしい小理屈を並べる人では微塵もなかった。長年、マスメディアの報道記者という仕事を続けてきて沢山の人々と交流してきた。極めつけのすがすがしさを後に遺して先に逝った人が、たまたまなのか、なぜか一水会の関係者に複数いる。
知り合った順番から言えば、まず阿部勉という人がいた。酒を愛し、談論風発を好んだ。俳優の成田三樹夫(故人)が着物を着てそのまま歩いているような風貌の人だった。その阿部氏から鈴木邦男さんのことを聞かされた。いつのまにかごく当然のように鈴木さんと知り合い、いくつかの場所でご一緒させていただいた。

 鈴木さんの最初の本『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)は、自宅の本棚のどこか相当奥の方に今も埋もれているはずだが、本が多すぎて探せない状態だ。

 二〇一九年の愛知トリエンナーレでの『表現の不自由展』中止問題で、雑誌『創』が呼びかけたシンポジウムに鈴木さんとともに参加した。僕はその時のパネルディスカッションで、鈴木さんの隣の席にいたのだが、鈴木さんの発言に、あっけにとられたことをよく覚えている。

 この席で僕は、主催者たちはなぜからだを張ってでも同展の開催継続を決断しなかったのか、といういささか感情的な発言をした記憶が残っている。けれども、鈴木さんの発言に耳をすませて聴いていた僕は、この時、得も言われぬほど感動したのだった。

 鈴木さんはまるで異次元にいるかのように、『表現の不自由展』のことにはほとんどと言っていいほど触れず、おそらくその時期にみたばかりの映画『えんとこの歌』(二〇一九年 伊勢真一監督)が、いかにすばらしい映画であるか、この作品がどれほど深い人間讃歌であるのか、を滔々と語っていたのだ。本当にそのことばかりを語ったのだ。僕はひどく感動してしまった。

 脳性麻痺の寝たきり生活を送りながら何とか介助者たちと共に自立する道をさぐって生きていくある人物を追った『えんとこの歌』は、その頃僕もみたばかりだったので、鈴木さんのいう言葉にいちいち頷いてしまったのだ。この世には「情念の連鎖」とでもいうべきものがある。

 阿部勉さんや鈴木邦男さんのような、からだを張ってでも、言行一致、知行合一、つまり言っていることと、やっていることのあいだに食い違い、矛盾がない生き方を貫こうとする人は今や絶滅危惧種だ。見渡せば「口舌の徒」ばかりの世の中になった。言葉は、この国では凌辱され続けている。たとえば「日米同盟」。たとえば「専守防衛」。たとえば「沖縄の本土〈復帰〉」。

 鈴木さんのご冥福をあらためてこの娑婆(しゃば)から祈ります。