言論人・鈴木邦男の大きさ

 ツイッターでの訃報発表後、リツイートは五〇〇〇件、アクセスは二〇〇万件を超え、いまだに増え続けている。生前、親交のあった方々の様々な「悼み」も、マスメディアやSNSで数多く発表された。いずれも故人への心温まる思いが感じられるもので、本当にありがたく思っている。

 内田樹氏は「独立独行の人」と評した対談書のあとがきをブログに掲載し、「朝日新聞」の藤生明編集委員、石川智也記者も追悼記事を書いてくれた。「朝日新聞」でいえば一月二九日朝刊の天声人語は、全幅を鈴木さんに費やし、最後を「右や左といった思想の枠に収まらない異色の言論人が逝った」と結んだ。

 作家の森達也さんは、「ショックで文章を書くのもままならない」と話していたという。その一言に、森さんにとっての、言論人としての鈴木邦男の存在の大きさが表れている。

涙が止まらなかった

 私は、社会人になってからは人前で泣いたことがない。ただ一回の例外が、鈴木さんの死を知った二日後だった。その日、以前から決まっていた国士舘高校時代の同窓会の打合せ会に赴いた。会場に着いた途端、皆から「鈴木さんへの香典です」と封筒が差し出された。

 「いずれ喪が明けたらお別れ会を予定しているので、出席していただいたときに頂戴します」と丁重にお断りした。

 二〇人くらいの気の置けない仲間同士の同窓生の打合せで、何人かの発言の後、私の番となり、鈴木顧問の逝去を報告したところで、抑えていた思いが一気にこらえきれなくなって、涙が噴き出した。絶句したまま、どのくらいの時間がたったのか。誰かが渡してくれたおしぼりで、何度も何度も鼻を拭った。

 公の場では気丈にしていられたが、一人の人間・木村三浩に立ち返ったことで、四十余年の親交が頭を駆け巡り、不覚にも感情が溢れ出してしまった。そのまま何分か過ぎ、気持ちを落ち着かせて、やっと以下のような言葉を振り絞った。

「鈴木顧問が平成三〇年にパーキンソン病を患ってから、中野や荻窪の病院にお見舞いに行って激励しつつ、病気からの回復を願って活動の報告をしてきました。ここ数年、表には出てこられませんでしたが、電話でのやりとりを続けていました。逝去された事実は悲痛であることは間違いありませんが、故人の冥福を祈るとともに、その遺志を継いで活動を続けていくのが私の使命だと思っています。しかも、鈴木個人、木村個人の問題ではなく、日本の自主独立、日米地位協定の見直しなど、重要な宿題を解決しなければならないので、引き続き皆さんのご指導ご鞭撻をお願いいたします」

 これが精一杯の言葉だった。鈴木さんの死は、いつか来るものと覚悟はしていたが、こんなに早いとは夢にも思っていなかった。

『腹腹時計と〈狼〉』に感銘

 鈴木さんと私との関係は、本当に長い。一水会の代表は鈴木さんが二八年間務め、私が後を継いで二四年になろうとしている。

 高校時代から民族派運動を始めた私は、昭和五三年八月、二一歳の時に、日本青年社が組織した第六次尖閣諸島領有決死隊の一員として尖閣諸島魚釣島に上陸し、灯台の建設に関わった。通算二回の上陸で、都合二カ月余り、尖閣に滞在することができた。

 そして昭和五五年、一水会の勉強会に初めて参加した。鈴木邦男との出会いだった。それから四〇余年、苦楽を共にする付き合いとなった。

 昭和五六年には「統一戦線義勇軍」が結成され、私が議長に就任した。この団体は一水会を中心に民族派の若手が集まったもので、民族派の若手行動隊的な位置づけだった。

 一水会に参加したのは、鈴木さんの著作『腹腹時計と〈狼〉』(三一書房)と『現代攘夷の思想』(暁書房)を読んで、〝この著者には誠がある〟と感じたことが大きな動機だった。

 『腹腹時計と〈狼〉』は昭和五〇年の出版当時、「右翼が左翼を評価した」と、大きな反響を呼んだ。天皇爆殺まで計画した〈狼〉の思想は鈴木さんと相容れないが、目的に向かって日々の暮らしを律し、捕まった時には青酸カリをあおいで死ぬといった、本当に命を懸ける志には学ぶべきところがあると、鈴木さんは評価していた。

 同書は、我々民族派の旗幟を鮮明にした書物でもあった。どういうことかというと、戦後民族派が、時代状況(左翼勢力が強かった)ことから、反共を掲げ、体制の維持をもって旨としていたことに対し、民族派としての克服課題を掲げていたのだ。すなわち、戦前のナショナリストのようにアジアとの連帯を掲げ、米国の植民地主義的な世界支配戦略にNOを突き付け、米国支配からの脱却、対米自立の立場を明らかにするものだった。

実践する志

 課題克服のための最大の武器としての機関紙の定期発行を優先的に行い、今日に至っている。今皆さんに購読していただいている「レコンキスタ」は、昭和五〇年に発刊され、今号で第五二六号を数える。この四八年間、継続して日々の活動を通じ毎月一回の発行を絶やさず続けてきたのだ。

 よく「創業は易し、守成は難し」と言われるが、日米関係にとどまらず、原発、農業問題、差別問題、朝鮮半島の問題など、さまざまなテーマを題材に、広く話題を取り上げてきた。

 ここ一〇年近くは、「レコンキスタ」の新年号に鳩山友紀夫元首相、自民党閣僚経験者、与野党国会議員、大学教授、ジャーナリスト、評論家、各国大使などの方々から新年のメッセージを寄せていただいている。

 民族派の機関紙で、これだけ多彩な方々が登場している例は、おそらくないのではないか。今やブランケット版の定期刊行物として、独自な視点から世に打って出ている新聞の一つであると自負している。

 また、月一回の公開勉強会である、「一水会フォーラム」の開催は、通算六〇〇回を重ねている。当初、「一水会勉強会」として開始され、その後、「民族派青年学生勉強会」、「一水会現代講座」と改称ののち、現在の「一水会フォーラム」の名称となった。私は代表になって二十三年経つが、既に二四〇回も開催してきた。講師には政治家、学者、ジャーナリスト等々、真摯でフェアな討論を目指して左右問わずご登壇いただいている。

 今年二月の一水会フォーラムの活動報告で、弊会の若手会員が「年何回かというのではなく毎月という、継続性に意味があるのだ」と指摘していたが、そう感じてもらってありがたく思っている。大正時代に左右の論客を集めて議論した「老壮会」のような、自由で現場主義の視点に基づき、国家の経綸に具申できるような内容にしたいと、「一水会勉強会」を立ち上げたのは鈴木さんである。この弊会の伝統を絶やす事なく継続し、さらに発展させていくことは我々会員の使命であると思っている。

活動の原則を守った五十年から次の時代へ

 昭和四五年一一月二五日の「楯の会事件」に衝撃を受けて、鈴木邦男によって結成された一水会は、三島・森田両烈士らの憂国の精神を継承し、後世に恢弘するべく、一貫して活動を継続してきた。

 平成一九年公開の映画「靖国YASUKUNI」の上映をめぐっては、激しい抗議活動を展開する右翼・民族派に呼びかけ、新宿のロフトプラスワンで右翼・民族派向けの上映会を行った。上映後の議論では批判もされたが、「週刊誌報道だけを見て煽られ、街宣で圧力をかけるのは良くない」「映画を観ないで抗議するべきではない」との姿勢を示した。

 翌年の平成二〇年、私と鈴木さんは北朝鮮の平壌を訪問し、朝鮮労働党の幹部と、拉致問題や残留日本人の遺骨問題、アジアと日本との歴史認識の問題について議論した。

 平成二二年には、東京で「世界平和をもたらす愛国者の集い」を開催することができた。これはモスクワなどで開かれてきた「世界愛国者平和大会」の初の日本開催で、欧州諸国の一六か国のナショナリズム政党の主要メンバーが一堂に会し、議論した。会議の翌日には、各国のナショナリストの方々とともに靖国神社を参拝した。

 その翌年には、フランス国民戦線のブルーノ・ゴルニッシュ氏が代表を務める、欧州愛国政党の連合組織「欧州民族主義運動同盟」の会議に鈴木さんと私が参加し、交流を深めた。

 強固な「反米愛国」のスローガンを「対米自立」に改め、活動方針においても、さまざまな国や人種の方々との交流を含め、開放された民族派運動を目指して、実践してきた。

 一水会は、平成二七年五月二二日に「独自活動宣言」を発表した。それ以来、一水会は自ら右翼団体と名乗るのをやめた。民族派として右翼という狭いカテゴリーにとどまるのではなく、活動の幅を広げ、機関紙「レコンキスタ」でもさらに多彩な視点からの問題提起が可能になった。その甲斐もあって、さまざまな領域・分野から新たな信頼を寄せていただき、さらなる前進を勝ち取っている。

対米自立・自主独立を勝ち取っていく

 我々の目的は、「三島由紀夫・森田必勝両烈士の精神を御祭を通して恢弘し、日本の国家革新・真の独立を果たす」ことであって、創設時といささかも変わることなく、戦後体制の打破、真の独立、尊皇を基調としている。

 鈴木さんの凄いところは、自分に足りない部分を指摘されたら「あ、すみません」「これから勉強します」とすぐに言えるところだ。議論でも相手を論破するのではなく、負ける事を常に恐れなかった。
鈴木邦男さんは常に、「内部で凝り固まっていてはダメだ。たとえ左翼と言われる人達であっても積極的に意見交換しなくては」と言っていた。鈴木さん自身は、太田竜や竹中労といった政治的な立場が異なる人達とも、対話を重ねてきた経緯がある。

 しかし、そのような考え方は、民族派の内部ではあまり賛同されず、軋轢が生じたこともあった。「鈴木は左翼に転向した」と非難される事もあった。

 早稲田大学の学生だった時代の鈴木さんは、暴力で左翼学生と闘っていたし、批判されると「あいつめ!許せん!」と殴りかかっていた。その後は我々若い者を指導するなかで、また鈴木さん自身の様々な経験をとおして、左右のイデオロギーではなく人間そのものが尊重される社会のためには対話が必要であるという結論に至ったのだと思う。だから晩年に至るまで、独自の言論を自由自在に発信し続けていられたのだ。

 鈴木さんの思想と行動を継続するという宿題は大変重い。どれだけ守っていけるか分らないが、私なりに、今日まで担ってきたことをさらにバージョンアップして、継続していきたい。

 鈴木さんが危惧していたとおり、自民党、とりわけ故・安倍晋三元首相の改憲案は、国民の私権を制限し、国民の尊厳を踏みにじるもので、ひいては対米従属を推し進め、自衛隊が米軍の下請機関化することを助長する。

 現代日本は、軍事的にも精神的にも対米従属下にあり、自民党改憲案での「憲法改正」は、従属の強化にはなっても、決して日本の自主独立に繋がるものではない。

 自主憲法は「国軍」再建とともにあるべきで、日米安全保障条約・日米地位協定の見直し、そして戦勝国の戦争犯罪の糾弾なくして、真の日本独立はありえないのだ。

 日本の独立を達成するための思想と行動を継続し、所期の目的が達成されるまで民族派の灯を掲げてゆかねばならない。

木村代表と鈴木顧問がアジア訪問(平成二〇年四月)