昭和四五年一一月二五日、戦後日本の現状を憂い、自衛隊と、我ら一般国民に奮起を促すべく、他三人の同志とともに、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に突入。自衛官達に対するバルコニーからの最後の演説を経て、東部方面総監室において、その裂帛の気合いと共に自裁を決行された三島由紀夫・森田必勝両烈士。

 その憂国の志を顕彰し且つ「両烈士の決起前夜の覚悟に思いを致す」為に、元楯の会・伊藤好雄氏を祭主として昭和四七年から、それもあえて決起当日ではなく前日に、しかも三島烈士ではなく、森田烈士の辞世から取って「野分祭」と名付けられた祭典を、他の友好会派と合同で弊会は過去に取り行ってきた。

 そして平成二六年からは、これを「顕彰祭」と改め、弊会単独での開催としてこれを続けてきた。
そして一昨年。仏教で言えば五〇回忌(正確には、仏教の五〇回忌は四九年目の事だが)の、いわば神道で言う「祀り上げ」の時期を迎えたことをむしろ前向きな「大区切り」と見なし、「何時までも過去に囚われ、故人への顕彰と回想とにばかり浸っているのも日本古来の伝統の本旨(過去を乗り越え、未来に向かってより前向きに、発展的に進んでいけ!)にそぐわない。それより三島・森田両烈士の精神を、広く遍く世に広め実現してゆく事を、祭りの最大本義としよう!」という木村代表の発案により、昨年より本祭典を「追悼恢弘祭」と改め、「今や楯の会の精神が正しく伝はるか否かは君らの双肩にある。あらゆる苦難に耐へ、忍び難きを忍び、決して挫(くじ)けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進(まいしん)せよ」という三島烈士の遺言書の趣旨を、より全面に打ち出した祭典として挙行することとなった。

 その第二回目となる「三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼恢弘祭」が、去る令和四年一一月二四日(木)、東京は新宿にあるワイム貸会議室高田馬場において執り行われた。 

第一部
恢弘祭祭典

 今年もまた、全国各地から一二〇名の方々にご参加いただき、大盛況の祭典となった。
 祭りは、予定どおり午後六時三〇分、今年から新たに司会を務めることになった瀧澤亜希子氏の挨拶により始まった。大会実行委員会の日野興作副委員長による「開会の辞」、さらに同氏主導による参加者全員での国民儀礼(コロナ禍のため、今年も過去二年と同様「国歌斉唱」ではなく「国歌拝聴」)、「皇居遥拝」、続いて両烈士ならびに戦没者、そして三・一一犠牲者の御霊に対する黙祷へと続く。

 そして今年から新たに典儀を務めることになった稲貴夫氏の進行により、神道式祭儀が始まる。

祝詞を奏上する櫻井颯斎主

 昨年に続き、櫻井颯氏が斎主を務め、「修祓」「降神の儀」「献饌」「祭詞奏上」といった神道儀式が、万事滞りなく進行する。そして木村代表による「祭文奏上」、弊会青年局国際部の戸山國彦君による「檄文奉読」、塩入大輔君による「遺詠奉唱」へと繋がってゆく。その後の「玉串拝礼」は、残念ながらコロナ禍の影響により、講師の前田先生と来賓である阿形充規氏、小林興起氏、本間達也氏、そして実行委員長である木村代表の五名による代理奉奠となってしまった。

祭文を奏上する木村三浩実行委員長

 だが、代表に合わせての参加者各自による二拝二拍手一拝に込められた思いは、決して例年に劣ることは無かったと信じたい。そして「撤饌」「昇神の儀」を経て、最後は神職退下をもって第一部・追悼恢弘祭は恙無く終了した。

第二部
前田日明先生の記念講演

 十分間の休憩を経て、第二部の記念講演が始まる。

 本年の講師は、元プロレスラーにして格闘技団体リングスCEO、そしてアマチュア格闘技団体THE・OUTSIDERのプロデューサーでもある前田日明先生である。「憂国の志操を貫く」と題した特別記念講演を、今年も過去二年と同様、四〇分間・質疑応答無しのミニ講演会として開催した。

前田日明先生による記念講演

 「なぜ三島祭の講演に格闘家が?」などという疑問を持つ方が、今さら本紙読者にいるとも思えないが、念のため説明しておくと、先生は学生時代から格闘家であると同時に大変な読書家としても知られている。中でも特に三島文学への造詣が深く、そのテーマで弊会鈴木邦男顧問とも度々対談をされたこともある。その縁から今回、講演をお願いするに至った次第だ。

 そしてその内容は、単に三島文学に止まらない、現下日本の「嘘にまみれた」惨状への憂いにまで及ぶ、とても記念講演の枠には収まりきらない壮大なものとなった。

 詳しくは次号掲載予定の講義録に収録いたしますので、当日会場に来られなかった読者諸兄には、是非ともそちらをご覧いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

 最後は小山博史氏の先導による「聖寿万歳」、実行委員会副委員長の番家誠副代表による賛助御礼と、閉会の辞をもって第二回「三島由紀夫・森田必勝両烈士追悼恢弘祭」は滞りなく終了した。なお当日は、鈴木宗男参議院議員(秘書代理)、杉本延博氏(御所市議会議長)が参列された。(残念ながらコロナ第八波の影響により、直会兼懇親会は、今年も開催出来なかった)。

 ここで昨年、本紙上で紹介し且つ木村代表もスピーチ等で度々触れられるようになった、歴史的故事を再度紹介しておきたい。

 キリスト歴一七五八年、儒学者にして神道学者の公卿・竹内式部が、崎門学派の垂加神道に基づいて、京都で公家たちに尊王論を説き、京都所司代が式部を重追放にするなど関係者を処罰した、世に言う宝暦事件が起こった。

 その九年後のキリスト歴一七六七年、やはり儒学者の山縣大弐が、宝暦事件に連座していた門弟の藤井右門とともに、幕府転覆の陰謀を企てたという冤罪を着せされ処刑された、世に言う明和事件が起こった。

 そんな江戸時代の事件を、何故今頃になって、木村実行委員長は盛んに取り上げるようになったのか。

 両事件の関係が、三島・森田両烈士による義挙と、それに触発して起こされた、YP体制打倒青年同盟の伊藤好雄隊長らによる、世に言う「経団連事件」との関係にあまりにも似ていること。さらには両事件とも、後世においては「明治維新の先駆け」として高く評価されるようになったこと。但し両事件とも、その志が果たされ、明治維新が実現するまでには、実に一〇〇年もの歳月が必要であったことを示す為である。

 この両事件が示していることとは何か。

 一つの志が果たされるのに、五〇年どころか一〇〇年の歳月が必要な事くらい、人類の歴史においては、何ら珍しい事では無い、ということだ。

 どんなことがあっても、両烈士の義挙を世間から忘れ去らせる事など、我々は絶対に許せないし許してはならない。

 たとえ今現在は、三島・森田両烈士の志がどんなに時代遅れな、忘れ去られた価値観に見えようとも、それが真に価値あるものである限り、再評価されるときは必ず来る。しかしその為には、細々とでもいい。それを後世に語り伝えてゆく者、そしてその教えを少しでも多くの人々に語り広めてゆく人が、必ず必要になるのだ。

 たとえどんなに歳月が流れようとも、またはたからはどんなに運動の成果が上がってないように見えようとも、我々は決して諦めることなく、どこまでも忍耐強く且つ気長に、この運動を続けていかねばならないと、今年も改めて強く誓った次第である。

 願わくば皆様方からも、さらなる御支援・御叱責を賜りたく、これからもどうぞよろしくお願い申し上げる。

 この恢弘祭については、木村実行委員長が毎日新聞の取材に応じ、三島・森田両烈士の追悼・恢弘の意義を述べ、一一月二八日付け「毎日新聞デジタル」において報じられた。