最近、どうも奇妙に思へてならないことがある。昨年二月二十四日、ロシアがウクライナを相手に「特別軍事作戦」を開始してからのことだ。ありとあらゆる戦争に反対する左翼がロ・ウの軍事衝突に異を唱へるのはわかる。共感はあまりできないが理解はできる。奇妙なのは右側の方だ。
昭和二十年までの日本のあらゆる軍事行動を、ほんの少し前まで肯定してやまなかったその口で、ロシアを全否定する。対米戦争に自存自衛・アジア解放の側面が(看板倒れでもあったが)少なからずあったことは、およそ右派の共通理解であらう。のみならず、日華事変においても日本側の正義が大であったことを主張してゐた右派は多かった。どうしてその同じ口で、ロシアの軍事行動を断罪できよう。日華事変・大東亜戦争の際の日本と、今のロシアと、何が同じで、何が違ふのか。過去・現在の自国の美点を自分に投影し誇りに思ふのは結構だが、二重基準を駆使し、認知を歪ませてまで自分を愛しては異常である。
日本人にとって日華事変がいかなる戦ひであったのか、過大な自己愛も、必要以上の自己否定も取り去った公正な検証が、右も左もできてゐなかったのではないか。それがための今の思想的混乱ではあるまいか。
わからないことをわからないと言へるのは誠実である。自分の正しいと信じたことを、百万の怒号に負けずに訴へ続けるのはなほ誠実だ。「親露派」「陰謀論者」と罵られながら、なほかつガルージン前大使を昨年八月の広島へ招待し、献花を実現した木村代表の度量に感ずるものは多い。
「生命尊重以上の価値の所在…それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」。「三島先生を尊敬しています」と言ふ同じ口で、自由・民主主義を至上の価値とする「西側」諸国への「連帯」といふ名の盲従に何の疑念も感じなくなったホシュ派に、三島先生の匕首はどう見えてゐるのだらうか。