新年あけましておめでとうございます。私は昨年十一月二十四日に行われた「三島由紀夫・森田正勝両烈士追悼恢弘祭」に実行委員として初めて携わり、三島烈士の檄文を稚拙ながら奉読させていただきました。一言一句が計り知れない重みを持つ檄文ですが、その中でも「生命尊重のみで、魂は死んでも良いのか」という一節は何度読んでも心に響きました。

 我々は幼き頃より命が何よりも大事であることを教わりますが、何故大事なのかを教わりません。その大事な命を持って何を成すべきかを示すことはむしろ個人主義の観点からタブーとされています。各々が己の道を切り拓けばいい、などと言えば聞こえは良いかもしれませんが、どれだけ優秀な船乗りも羅針盤なくして海は渡れません。ましてそれがどんな航路よりも遥かに複雑怪奇で混沌に満ちた人生という荒海であれば、道標を持たぬものはあっという間に波に飲まれてしまうでしょう。戦後の日本は自由と民主主義という美辞麗句の元、国民をこの荒海に投げ込み続けてきたのです。

 生命尊重という戦後民主主義の教義は、その根底を成す目的論が欠落していたために、価値のある生き方がわからない国民を次々と生み出してしまいました。形而上学的思惟を持たぬ彼らはいとも容易く資本主義が説く個人と物質の崇拝に取り込まれ、自らの命を個人的享楽に消費し、軽薄に投げ打ってしまうのです。我が国を蝕む道徳意識の低下、共同体の崩壊、無気力、心の病、瑣末なことへの執着などは全てここに原因があります。

 生命活動という狭義の「生命」のみを抽象化し尊重することは、かえって生命の全体性を見失う結果を呼び、その真価を貶めてしまっているのです。これがまさに、三島烈士が警鐘を鳴らした「魂の死」でしょう。

 人とは、己に死に大義に生きるもの。私はこれからも民族派の運動を通して今まで以上に熱烈に、日本における生命尊重以上の価値の再生と恢弘を目指していきたい次第でございます。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。