自然循環型農業を目指す「ファームランド櫻島」
私が「玄米菜食」の食生活を学生時代から実践している事は、過去にこの連載(第三十回、第三十七回)で紹介しました。
しかし世間の大多数の人は白米肉食派です。川瀬家でも、私一人だけが玄米菜食であり、妻や子供達は全員が白米肉食です。私はずっと残念でしたが、強要はしませんでした。
さて、昨年の令和四年の十二月八日から十日まで、鹿児島県を訪問しました。十二月八日に、愛知県の中部国際空港から鹿児島空港まで飛行機で行き、初めに訪問したのはカミチクグループです。牛を飼育から精肉まで全て統括するグループ企業で、「生産者として美味しい肉を消費者に届けたい」という理念を実践しています。
私は玄米菜食派ですが、安全で美味しい食べ物を提供しようとする企業の活動には、心から敬意を表したいと思います。
十二月八日の夜は、焼肉店に皆で行きましたが、私だけは肉を食べないので、野菜のセットばかりを何度もおかわりしました。
翌日の十二月九日に訪問したのは、農業生産法人の「ファームランド櫻島」です。平成十六年に生産を開始した農場で、「自然の摂理に従って、火山灰土壌の特性と錦江湾から採れる海藻を肥料化する手法で、鹿児島県の伝統作物である桜島大根、桜島小みかんを主要作物として、季節の野菜や果実を育てています」と、ホームページで説明されています。
ファームランド櫻島の主力商品である作物は、鹿児島の名物でもある桜島大根です。桜島大根には、「トリゴネリン」という、血管を強くしなやかに伸び縮みさせる成分が含まれています。
鹿児島と言えば「桜島大根」と言われるくらい有名ですが、日本人が桜島大根を最も多く食べていたのは大正時代でした。
大正時代は、桜島で一二〇〇戸の農家が二百ヘクタールもの農地で桜島大根を育てていましたが、桜島の噴火が相次ぎ、火山灰による被害もあって、農業は一時衰退していました。
昭和四十年代の新婚旅行ブームで鹿児島県が注目され、旅行客が増えた事で、桜島大根が土産物として注目されるようになりました。
そして再び需要が高まり、桜島大根を作る農家が増えていったのですが、近年は「核家族化」が進み、通常の大根より大きい桜島大根は売れなくなってしまいました。
それが最近になって再び注目されるきっかけになったのが、食生活を健康のために見直そうという「自然食」ブームです。健康食品として、桜島大根の需要が高まっているのであれば、㈱フローラも何かお手伝いしたいと考えています。
私は「ファームランド櫻島」の女性の代表に、「桜島大根を私達が買って、トリゴネリン成分を中心に商品化できますか?」と提案し、すぐにOKが出ました。
私は鹿児島県の訪問を終えて、三重県に戻った後に、「天然植物活力液のHB—一〇一」を無料提供しますので、桜島大根にHB—一〇一を五千倍に薄めた液を週に一回、散布して下さい。出来れば、それで育った桜島大根を購入したいのですが、どうでしょうか?とFAXで提案しました。
日本の消費者の皆さんに、安全で、かつ百%植物由来で、素晴らしい健康食品を提供できるなら、㈱フローラは、ぜひ実行したいと思っています。
伝統作物を無農薬、無化学肥料で育てる事を「自然循環型栽培」と言います。人体や自然環境に有害な化学物質を使うのではなく、堆肥は無化学肥料を使い食物を育てる。それを人が有効に使う、それが日本の本来の農業形態であり、今、大いに見直されています。
ビーガン、ハラル、オーガニックなど様々な「菜食主義」
「ファームランド櫻島」には、農場で採れた野菜を食べる事ができる農家カフェ「caféしらはま」が併設されています。
「農家のお昼ごはん」をコンセプトに、農場産の野菜を使った料理とコーヒーを提供しており、お店には「オーガニック、ベジタリアン、ビーガン、ハラルにも対応」と書かれています。
肉を食べない「玄米菜食派」の呼び方は色々ありますが、これら少数派にも気を配っているのは大変評価できます。
「オーガニック」を日本語で「有機」と言います。先に挙げた「自然循環型農業」そのものです。農薬や化学肥料に頼らない、百%天然の成分の食事しかしない人の事を、ヨーロッパやアメリカでは「ベジタリアン」と呼んでいます。直訳すると「菜食主義者」です。これをさらに厳格にしたのが「ビーガン」です。肉類は勿論、魚、牛乳、卵の類も食べない人々です。
私は過去の連載(第三十七回)でも、ビーガンの事を取り上げましたが、これを読んだ人から、「川瀬社長がビーガンだと初めて知りました」と感想が届きました。しかし、私は魚を食べるので、完全な「ビーガン」とは言えません。
「ハラル」はイスラム教の戒律に沿った食事です。イスラム教では、豚肉を食べる事と飲酒が禁じられていますが、その他の食品でも、加工や調理に関しては一定の作法があり、それに従って食事を提供しなければなりません。
サウジアラビア等、イスラム教が厳格な国では、ハラルでない食品の販売、流通は禁止されており、もし販売してしまった場合は厳罰に処されます。
イスラム教を信仰する国でも、戒律が緩い国もあるのですが、「HALAL」という表示が無い食べ物は、お店でもまず見かけません。
日本では、イスラム教国から来た人が多い地域で「ハラルフード」の店を見かける事があります。
また、近年はイスラム圏からの旅行客も増えているので、彼らに対応した「ハラル」の食事を出すホテルや旅館も増えて来ています。
イスラム圏の留学生が多い日本の大学の学食でもハラル食が提供されていますし、航空機の機内食でもハラルを選択する事ができます。
イスラム教以外でも、宗教的な理由から肉を食べず、菜食を徹底しているのは、インドの大多数を占めるヒンドゥー教徒、シーク教徒です。
昔、六本木にあった防衛庁から三百メートルほど六本木交差点寄りの所に「コーシャー」というユダヤ料理店がありました。
私は昭和四十八年の九月十一日に、一人でその「コーシャー」に行きました。店に入るとユダヤのおばさんが「ボーイ(子供よ)、何を食べるの?」と英語で聞くので、私は「ユダヤ料理のおすすめの三品を出して下さい」と英語で伝えました。そして出された料理を食べてみましたが、私にとっては普通の料理で、特別なものではありませんでした。
平成十一年の十一月二日に、インドからP・カウシーシさんが来日し、三重県四日市市の㈱フローラの本社を訪ねて来ました。
カウシーシさんは、「インドでHB—一〇一を販売したい」と希望しており、来日の目的は、日本国内でHB—一〇一を販売している所を見学する事でした。
そこで、十一月三日から二泊三日で、私、川瀬善業とカウシーシさんで長野県の七つの販売店を一緒に訪問しました。カウシーシさんが販売店の人に色々と英語で質問するのを私が日本語に通訳して、販売店の人が日本語で答えた事を、私が英語でカウシーシさんに伝えました。
訪問先である松本市の販売店の「大沢農機」さんは、農協のリンゴの大規模な選果場に案内してくれました。
宿泊先は二泊とも温泉宿で、カウシーシさんと一緒に温泉に入りました。私は裸でしたが、カウシーシさんは水泳パンツを身に着け、入浴していました。
一泊目の夕食の席で、何と牛肉が出て来ました。ヒンドゥー教徒であるカウシーシさんは当然食べられません。
当時は「ビーガン」はほとんど知られておらず、菜食主義者に対する配慮はほとんどありませんでした。二泊目は、牛肉は出さないように宿に頼みました。
最終日に東名阪自動車道路を使って、車で三重県に戻りました。高速道路の桑名東インターを降りた所に、日本食のレストランの「和食のさと」があったので、そこに入りました。
カウシーシさんと相談して、メニューから牛肉を使わない料理を探して豆腐などを注文し、カウシーシさんに食べてもらう事ができました。
長野県への訪問の後に、私の家にカウシーシさんを招待して、夕食を食べてもらいました。勿論、牛肉を出していません。
「サダージ」は世界第五の宗教勢力
その翌年の平成十二年二月八日に、今度は私がインドのニューデリーを訪問し、カウシーシさんに会いに行きました。
その時は、インドの各地を案内してもらいました。大量に靴が販売されている場所に案内してもらい、そこで私の足に合う、大きな靴を買ったりしました。もちろん、牛革の靴ではなく、合成皮革の靴でした。
三泊四日の旅程で、最終日にはHB—一〇一のインドの販売店の人が集まって、カウシーシさんと一緒にウイスキーを飲みました。この時はウイスキーをカウシーシさんが用意して、皆で一緒に飲みました。
カウシーシさんと一緒に街を廻っていると、頭にターバンを巻いた人を見る事がよくありました。
カウシーシさん曰く、彼らは「サダージ」と呼ばれる人々であり、ヒンドゥー教徒とは別の宗教の「シーク教」の信者との事でした。彼らの中では戒律でターバンを巻く事が定められており、常に頭に巻いています。
カウシーシさんは「じゃがいもとサダージはどこにでもいる」と言っていました。
シーク教は、インドを始め世界で約二千四百万人の信者がいて、世界的にも、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教に次いで五番目に信者が多いと言われています。
インドと言えば確かにターバンを頭に巻いている人を連想しますが、実際のインド人はほとんどがカウシーシさんの様なヒンドゥー教徒であり、「サダージ」はあまり見る事はありません。
しかし、富裕層やエリート層には「サダージ」が多く、マンモハン・シン前首相は、ターバンを巻いている事から分かる様に「サダージ」でした。
このほか、タクシーの運転手や警察官、軍人には「サダージ」が多く、植民地時代に英国によって、香港やマレーシア、シンガポール等で重用されることになりました。
これにより、海外で多く見るインド人が「サダージ」であった為、「インド人=ターバンを巻いた人」というイメージが定着したのでしょう。
「サダージ」も独自の戒律から、食べるものが定められています。牛肉はもちろん、肉類は全部、魚、卵も食べない、またゼラチンやラードの様な動物性の成分を使ったものも食べません。彼らも厳格な菜食主義者と言えます。
インドでは都市によって、各宗派、各民族だけが集まるコミュニティがあり、「サダージ」も専門のレストランがあるので、インドでは彼らは食事に困る事はないでしょう。
しかし外国ではどうでしょうか?「サダージ」の移民が多い米国や英国ならともかく、それ以外の国で「サダージ」の食文化は根付いていません。
中村天風さんは、インドで「ヒエ」を毎日、水で飲み込み続けて、難病を克服できた
もう一つ、私の過去の経験をお話ししますと、中華人民共和国のHB—一〇一の総代理店の「ハイデル社」が以前、インドの人を四日市市の㈱フローラまで連れて来た事がありました。
その時は、「ハイデル社」の人達と一緒に四日市市内で接待しましたが、食事に行った和食の店で「おすましの汁」が出ました。
これをインドの人は、「鰹節が入っているから食べられない」と拒否しました。そこで店の人に頼んで、鰹節を抜いた「おすましの汁」を作ってもらいました。
外食のレストランでは、最近になって植物成分のみを使った料理が販売される様になりましたが、この時はまだまだダメでした。
日本に来る外国人観光客は、また、増えるでしょう。日本人でも、ベジタリアン的な食事をする人が増えてくるでしょう。そうした人々のニーズに対応する事が必要です。
最後に、中村天風(なかむら・てんぷう)さんのエピソードを紹介します。中村天風さんは、日露戦争の時に活躍した軍事探偵であり、また戦前の愛国者団体の「玄洋社」の一員であり、孫文の友人であり、「中華民国最高顧問」の称号も持っています。
経歴だけを見ると、戦前に大陸に雄飛した大陸浪人的なロマンを感じますが、中村天風さんは日露戦争後、重い「奔馬性肺結核」に罹ってしまいました。
当時の医学では治す事ができない難病で、治療を求めて中村天風さんは欧米諸国を廻りましたが、治療する事はできませんでした。
中村天風さんは、明治四十四年の欧州からの帰途の際に、中継地のエジプトで、インドのヨガの大行者のカリアッパさんと出会いました。「近代の医学では無理だったが、ヨガの力なら治せるのではないのか?」と中村天風さんは考え、カリアッパさんに弟子入りしました。
かくして向かったのは、インドの奥地のヒマラヤ山地でした。そこで三年間を過ごし、ついに治療に成功したのです。
中村天風さんは、ヨガに影響を受け、後年、日本に戻った後に「天風会」を設立し、独自に学んだ「心身統一法」を人々に説きました。
中村天風さんは昭和四十三年に亡くなりましたが、「天風会」は現在も続いており、日本各地に支部を設けて「心身統一法」を教えています。
ヒマラヤにいる頃、中村天風さんは現地で、子供達が馬と一緒に遊んでいるのを見ました。
最初は「馬が子供を蹴飛ばすのではないか」と思い、中村天風さんは馬が人を蹴飛ばす動作をして注意を促しましたが、その場にいた子供達や大人達は笑って「大丈夫だよ」と答えました。
ヒマラヤでは、「動物が人に危害を与える事はない」と、ずっと考えられてきました。「動物は人と同格である故に食べる事はできない」と、肉食も禁止されていました。
ヒマラヤで米は一年間に三回も収穫しますが、全てが輸出されていました。
中村天風さんは、インドでは調理されていない「ひえ」を水に含んで飲み込んでいました。これはヒマラヤの人々の食生活と全く同じでした。
インドでのこの食生活で、中村天風さんは難病を克服できました。
精神的にも肉体的にも病む事が多いのが現代社会です。思い切って食生活を変えてみるのが良いかもしれません。私が百五十歳まで生きる予定であるのも、玄米菜食の食事にその秘訣があると思います。
『レコンキスタ』の読者の皆様はいかがでしょうか?