全国の読者の皆様、会員の皆様、大変ご無沙汰しております。この度の鈴木さんの突然の訃報に接し、僭越ながらこの場をお借りして、一言述べさせて頂きます。

 「右翼になって社会を糺す」と意気込み、一水会事務所にかけた電話が、何故か鈴木会長(当時)のご自宅に繋がり、初めてお話したのが、今から三十三年前のことでした。

 お住いの近くのファミリーレストランでの面談では、「入会させてください」とお願いした私の当時の人相風体を一目見て、「君は他の団体の方が向いていると思うから紹介してあげるよ」「いや、反米の一水会がいいんです」と、押し問答を続けた末、何とか入会を認めて頂いたものでした。

 私含めて三名がほぼ同時期に専従活動を始めたのですが、生活費として毎月、鈴木さんから「給料」(八万円。後木村代表の尽力で増額)を頂き、着なくなったジャンパーやズボンも頂いて運動していました。また、諸先輩方にもアルバイトの世話や、食事にもよく誘って頂き、衣食には困ることなく、三六五日運動に没頭することが出来ました。

 「はい、日野君」(発音は、しの君)と茶封筒で渡して頂くのですが、八万円とはいえ三人分を工面するのは、相当負担だったのでは、とその表情からも窺い知れました。

 続々と血気盛んな青年が集まる中、私を含めて実力行使を起こしたことも多々有り、数か月に一回は事務所に「ガサ入れ」が入るような状態でしたが、会長として責任を取らざるを得ない鈴木さんからは、一度も苦言を呈されたことが無かったように思います。

 但し、「ハード化」が進む私と、「ソフト化」が進む鈴木さんとでは乖離も生じ、やがて同世代のメンバー達と退会し、別団体を立ち上げ、独自の運動を模索する中で、鈴木さんを批判したことも有りました。

 その後、鈴木さんが顧問に退き、木村代表の体制で再度、一水会で専従活動をすることになった時は喜んで頂き、怒られたことは有りませんでした。

 鈴木さんをきっかけに運動の世界に入り、沢山の人々と出会い、多くの貴重な経験をさせて頂きました。

 結局、二人でじっくり話し込んだ記憶は無いに等しいのですが、また、お会い出来ると思っていただけに、こんな形になるなら、一度、直接お会いして感謝の気持ちをお伝えしておくべきだったと悔やまれます。

 最期まで、森田必勝烈士の決起に向き合い続けた鈴木さんに、我々が少しでも恩返し出来ることがあるのなら、それは鈴木さんの遺志を継いで、両烈士の思想と精神を恢弘し、次世代に少しでも今より誇れる日本を残していくことに他ならないと思います。

 会長、本当に有難うございました。これからもどうぞ、我々を見守ってください。合掌