鈴木邦男さんには長年にわたり大変お世話になりました。心より哀悼の意を表します。かつて〝武闘派〟といわれていた鈴木さんとの〝ことば〟を通しての交流はほぼ四〇年に及びました。

 いわゆる活動家から新右翼の理論家・思想家として衆目の認める人物になり、さらに近年の分断が進む世界と社会状況の中にあって、「意見の異なる者との対話」を怖れず、議論するという鈴木さんの姿勢は、いまこそ必要なのではないか。そんな思いで、私が編集に携わった書籍の歩みを時系列で振り返り、鈴木さんの〝思い〟を偲びたいと思います。

 連合赤軍事件関係の弁護人西垣内堅佑氏の紹介で、批判にさらされていた永田洋子さんの手記『十六の墓標』(上下、続)を出版した一九八二年〜八三年に続いて、永田さんと裁判で共闘していた植垣康博氏の『兵士たちの連合赤軍』(一九八四年)を続けて出版した。これが鈴木邦男さんと出会うきっかけでした。律儀な鈴木さんらしく、思いもかけず、獄中の植垣氏に送った書評をつうじて植垣氏と縁が出来たお礼に彩流社に訪ねてこられたのである。それが始まりだった。

*『読者大戦争・日本語の楽しい遊びと現代の読み方』(一九八六年)
「一つのドラマチックな出会いからこの本は生まれた。『兵士たちの連合赤軍」をたまたま読み感動して、『レコンキスタ』に書評を書いた。彩流社でそれをコピーして彼に送ってくれたという。それから植垣氏と手紙のやりとりが始まったし、面会にも行った。又、植垣氏との縁をつくってくれた彩流杜にお礼にうかがった。それが契機でこの本が実現したわけである」(「あとがき」)

*『新右翼・民族派の歴史と現在』(一九八八年)
「新右翼とは何か」を知りたいという、素朴な思いから出発した本である。当時、テロのイメージが強い「右翼」に対する風当たりは厳しく、出版社はなかなか手を出せない状況にあった。この本は、「たった一人の卒業式」からはじまっているが、鈴木さんは、自己史を書くのを嫌がった。しかし、結果的にはこの本をロングセラーにし、鈴木さんの足跡を伝える貴重なものになった。

*『テロ・東アジア反日武装戦線と赤報隊』(一九八八年)
デビュー作『腹腹時計と〈狼〉』を改題、朝日新聞を襲撃した赤報隊事件を増補した本である。東アジア反日武装戦線の大道寺将司さんを、ある縁で事件以前に知っていたが、鈴木さんの「反天皇制」運動への共振は反響を呼んでいた。解説を書いた猪野健治氏が「新右翼」の命名者だと述べている。

*遠藤誠著『新右翼との対話』(一九九一年)
『レコンキスタ』に連載された鈴木さんとの「対話」をまとめた本である。一九九一年に「暴力団対策法」は制定されたが、著者が反対運動の弁護人だったので、親分衆やマスコミが多数かけつけ異例の出版記念会になったことも思い出深い。

*『鈴木邦男の読者術・言論派「右」翼の原点』(二〇一〇年)
読書家として知られた鈴木さんの長年の執筆をセレクトした集大成ともいえる本である。
『行動派の読書術』(長崎出版、一九八〇年)の反響を呼んだ文章も収録した。出版時、佐藤優氏との対談を池袋ジュンク堂でやったが、鈴木さんの「読書愛」と佐藤氏の「速読術」に感心した記憶がある。

*『連合赤軍は新選組だ!・その歴史の〈謎〉を解く』(二〇一四年)
「まえがき」に「「敵」を論じることで、自分たちの運動、そして日本を考えた。だからこそ僕の本音が一番出ていると思う」と書いている。植垣康博、塩見孝也氏をはじめ当事者を、トークイベントなどに引っ張り出し、発言の機会を作ったのが鈴木さんだった。

*「『新右翼「最終章」』(『新右翼』の(新改訂増補版)(二〇一五年)
「新右翼との訣別」と題した「あとがき」には次のような言葉が書かれている。「「あとがき」を書くのが、つらい。苦しい。出来ることなら、こんな「あとがき」は書きたくなかった。「あとがき」を書く時、こんな気持になるのは初めてだ。今まで七〇冊ほど本を出してきたが、この本が一番愛着がある。愛しい」