鈴木邦男さんの月刊『創』の連載「言論の覚悟」は始まってもうすぐ三〇年になるところだった。その連載をまとめた著書の中で鈴木さんはこう書いていた。
《もの書きは全て、自分の住所と電話番号を公開すべきだと僕は思っている。それ位の覚悟と自覚を持つべきだと思う。》
《反響は全て引き受けるべきだ。少々恐ろしくとも引き受けるべきだ。それが嫌なら、もの書きという仕事をやめるべきだ。そんな覚悟のない人間が、偉そうにきれい事を言ってるから、言論はどんどん下劣になり、言論の自由がなくなるのだ。》
住所と電話番号公開というのは他の人には真似できないだろうが、ここで書いている「言論の覚悟」はまさに正論で、言論に関わる者が肝に銘ずべきといつも考えてきた。
鈴木さんと頻繁に顔を合わせたのは、二〇一〇年、映画『ザ・コーヴ』上映をめぐる騒動の時期だった。「反日映画」だとして上映をやめさせようとするネトウヨを中心とするグループが映画館にたびたび押し掛けた。私はできるだけ現場に足を運ぶことにし、いつも鈴木さんと一緒になった。ふと気が付くと隣にいた鈴木さんはいつのまにか抗議の部隊に近づき、「映画を観もしないでやめろと言うのはおかしいじゃないか」と説得していた。現場に緊張した空気が流れ、機動隊がバタバタと移動して周りを取り囲んだ。時には現場が混乱し、鈴木さんが殴られて顔から血を流したこともあった。
鈴木さんについては、右翼からリベラルへ変わったとよく言われるが、それは日本の言論界の座標軸が右へ寄ったために鈴木さんの立ち位置が相対的に変わったということかもしれない。しかし、一貫して変わらなかったのは、鈴木さんの「言論の覚悟」という強い思いだった。それは『腹腹時計と〈狼〉』を書いた一九七〇年代から鈴木さんの中に貫かれていたように思う。
貴重な立ち位置だった鈴木さんがこの時期に亡くなってしまったのは残念でならない。一水会のお別れの会にはもちろん参加するが、それと別に、ジャーナリストなどを中心に四月二日に「偲ぶ会」を開く予定だ。声をかけると、田原総一朗さんを始め、たくさんの言論人が進んで発起人になってくれた。それは鈴木さんに対する多くの言論人の思いを反映したものだが、そのことに今、鈴木さん自身はあちらの世から、「え、そうなの?」と照れながら笑っているかもしれない。合掌。