国難の淵源とは
少子高齢化、経済の衰退、貧富の差の拡大、隣国との関係の悪化など、我が国には様々な国難が訪れていることは言うまでもない。では、どのようにして現状を打破すべきかと言われれば、その回答は千差万別だろう。改憲、積極経済、セイフティーネットの拡充、多様性の推奨、女性の社会進出、移民――右から左まで様々な意見が飛び交う。しかしこれらはどれも難病の症状を抑えるために薬を処方する如き行為であり、病の快復には至らない。
国の衰退は、偏に国民の精神的衰退がもたらすものである。これはローマ帝国の終焉から、現代に見る西洋文明の崩壊まで歴史が幾度となく証明してきた事柄だ。国の礎たる国民が結束出来ず、道義を軽んじ、自立心を持たなければ、時の為政者がいかなる政策を取り、いかなる法律を作ったところで抜本的解決にはなりえないだろう。
そして世の中を見れば明らかだろうが、現代の日本人からは強き国民を構成する三つの要素、結束・道義・自立が著しく欠落している。
強き国を作る三つの柱
まずは結束。これは言わば民族意識であり、国民が共同体としての認識を持ち、信頼に基づいた共存共栄の関係を築き、有事には一丸となって立ち向かう精神である。幸いにも民族という概念を否定し、大量の移民と混血化により国内の分裂が進む欧米と比べて日本人はまだ民族としてのアイデンティティが保たれているものの、このまま米国の影響下にあり続ければ、やがて日本国民もグローバリズムに飲まれ、国も同胞も持たず、隣人すら信用ならない「地球市民」に成り下がるだろう。
次に道義。これは国民の一人一人が確固たる倫理観を持ち、不義に目を背けず、人の道を説き、己を律する精神である。これは世俗的ヒューマニズムに塗れた現代日本におい失われかかっていると言っても過言ではない。何故なら世俗的ヒューマニズムは物質主義的かつ個の崇拝であり、寛容さ・多様性・包摂性を至高の価値観とし、他者の否定を悪とするためである。こうした即物的な思想が国民の倫理観を蝕み、社会を歪ませている。まさに「昭和維新の歌」の歌詞にもある「人栄え国亡ぶ」状況だ。
最後に自立。どれだけ強靭な結束力を持ち、どれだけ道義を重んじようとも、それを命じられたがために行っているのであれば操り人形と変わらない。自立心の欠落は近代以降民衆による改革を経験したことのない日本国民に色濃く染みついており、この悪癖は現代に至るまで受け継がれている。強き者に媚びへつらい、責任を負う事を避け、ただ命じられるがままに行動することに安堵する受動的な国民性こそが戦前において君側の奸による横暴を許し、戦争の火種を生み、戦時中は数多くの悲劇を招き、戦後より続く従米体制を作り上げ今日まで維持するに至った。
その反面、結束と道義無き自立もまた個人至上主義への傾倒を招き、家族・民族・国という人類の要たる共同体の崩壊へと繋がる。すなわち結束・道義・自立はどれか一つでも欠けてしまえば価値ある変化は見込めない。
逆を言えば、困難あらば助け合い、不義のあるところそれを正し、これらを自ずと行える民が大多数となれば、必然的に国は強く豊になるだろう。
また、結束と道義は我が国の歴史・文化・伝統の精華であるが故、日本国および日本民族の本源たる万世一系の皇統と一体である。
すなわち尊皇とは結束と道義を重んじることであり、結束と道義を育むことが尊皇へと繋がる。そして自らの意思でこれを行うのが自立であり、これらを合わせてより包括的な日本精神――尊皇自立が完成する。
この尊皇自立の精神を自ら体現し、世に広めることこそが日本復興と自主独立の道ではないだろうか。