戦後の歴史は、民族否定の歴史である。ナショナリズムと民族主義は十九世紀から二十世紀前半にかけて起きた人類史上かつてない規模の戦争・弾圧・虐殺の引き金とされ、自由主義を謳う西側諸国からは徹底的に排除された。これはただ思想として排除されただけではなく、政治・歴史・経済学・社会学・人類学・自然科学とあらゆる面から共同体としての「民族」という概念自体が否定されたのだ。民族意識は近代的な国民国家において支配者層が生み出した統制の方便であり、なんら正当性を持たない社会的構築に過ぎないと。

 こうして人類は民族というしがらみから解放され、個人中心の社会となることによって、より自由で多様性あふれる平和な世界が生まれる――というのが自由主義の考え方であり、戦後民主主義の本懐である。

 しかし、いざ蓋を開けてみれば、先進国はどこも社稷を思わぬグローバル主義の政治家や資本家が政治経済を私物化し、国民は団結できぬよう分割統治され、搾取されながら建前だけの民主主義に踊らされている。 このような有様になってしまったのはまさに人類の根本的原理の一つである民族という概念を国家から切り離し、その空白を個人主義で埋めてしまったからに他ならない。そもそも「個」というのは家族・部族・民族・国といった過去と未来を共有する共同体の中でのみ存在できるものであり、自由主義の根底にある「共同体は社会契約を結んだ個人間で生まれる」という考えは因果関係の逆転した、歴史の実態と?み合わない虚妄にすぎないのだから。

 しかしこの虚妄は私服を肥やしたい者たちにとっては恰好の道具である。「人類」や「国際社会」といった共同体になりえない枠組みを作り、個人の尊重・寛容性・多様性の名目で人々を孤立させ、何ら精神も持たない物質主義的で無機質な国を作り上げていく。そんな中で国民主権を謳った所で、共通の歴史や文化、そして理想や使命を持たない原子化された国民から国を良い方向へと導く民意など生まれ得ない。故に政は富と権力を持ったエリートの独断場となり、国は民の幸福と関係なく彼らの損得勘定によって動かされていく。

 この状況を打破するには、我々は認識を改めなくてはならない。民族は学術的なカテゴリーにのみあらず、また、国家はただの統治組織ではないことを。これら二つは倫理的・精神的属性を持った不可分な有機体であり、個人はその中で守られ育まれていくのだと。これを理解して初めて国民は一致団結し、グローバル主義のブルジョアや多国籍企業の意思ではなく、民意によって国民の権利を守り民族の繁栄をもたらす政治が可能となるだろう。

 ナショナリズムと民族主義が忌避される理由の一つとして、ジンゴイズムや植民地主義、あるいは全体主義的への倒錯が連想されるというのはあるだろう。しかし戦後の歴史を見るに、その実態はまるで逆である。現代のジンゴイズムはアメリカ主導の超国家的権力が主権国家に介入することであり、植民地主義は国民の生活を脅かす産業の海外移転と移民政策であり、全体主義はグローバル主義に染まった為政者によるリベラルな価値観の強要であり、これらに唯一対抗しうるのが民族の結束と国家の主権回復である。

 また、現代のナショナリストに求められる心構えは自国さえよければいいという自民族中心主義的なものではない。むしろグローバリズムを倒すにはグローバリズムに取って変われるビジョンが必要となる。それは世界中に様々な文化を持った民族が存在し、それぞれが自国に誇りを持って生き、対等な立場で連携できる民族多元的かつ多重極的な世界を作ることである。これらを目指すことこそがより強い国家を作り、民族の繁栄へと繋がり、最終的には個人の幸福へと繋がるのである。