昨年亡くなられた藤本隆之氏に、改めて追悼の辞を申し上げます。

 私、桜田修成が藤本さんと初めて会ったのは、決して古い昔の事ではありません。

 八年前、「桜乱舞流」(すくらんぶる)という愛国バンドのライブに運動仲間と一緒に行った時、何やら「横山やすし」似の面白そうな奴がいると思って声を掛けた相手が彼でした。すっかり意気投合して笑い合ったのちに、運動仲間にあいつ面白い奴だよと言ったら、運動仲間が驚き「あの人は展転社社長の藤本さんだよ!」と言われ、そこで初めて素性を知ったのです。共にライブの打ち上げにも参加し、私が昔一年程「一水会」に居た事や、当時「風の会」が初めて国政選挙に打って出た時、私もその選挙運動員として参加していた事、さらに野村秋介先生の話などをして大いに盛り上がったものです。

 その後、会う事も無く過ごし、次に会ったのは四年前の年末に運動仲間と調布駅前で「憲法九条破棄!安保条約の欺瞞!」と題する街宣をしていた時でした。突然大雨が降り、止めるわけにもいかず、傘も差さずにやり続け、殆どの通行人が急いで通り過ぎて行く中、夫婦らしき二人づれが最後まで、私の街宣を聞いてくれました。感動しながら近づいて行ったら、何やら見覚えのある顔で、「もしや藤本さんじゃないですか」と聞いたら、笑顔で「おう、お前、年末で大雨降っている時ナニやってるんだ!大したもんだよ、見直したよ!」と言われ、改めて名刺を交わし、付き合うようになったのです。

 呑みに誘うと藤本さんが「俺、今は展転社の社長辞めて金が無いんだ」と言う時もありましたが、自分がおごるから心配するなと誘ったものです。

 しかし、そのうちにコロナ騒動が起き、藤本さんが入退院を繰り返すようになり、さすがに誘う事も控えるようになり、殆ど電話連絡となったのですが、ある時、藤本さんから、経綸機構なる団体が立ち上がるから、一緒に参加しないかと声が掛かりました。その時「俺はまた再起する」と意気盛んだったのですが、結局、藤本さんは経綸機構の立ち上げ会には来ず、殆ど連絡も途絶えてしまった後、藤本氏が亡くなったとの報せが届いたのです。

 訃報に接して私は「とうとうこの日が来たか」という思いがしています。

 彼は人生をやりたい放題自由に生き抜きました。大好きな酒を止めず暴れた人生も彼の本懐だったのでしょう。

 憂国の士藤本隆之さん、お疲れ様でした。