岩国・反戦喫茶の跡地

 今、私はドーハにいる。
 
 久々に長期の海外出張だ。アフリカ開発会議(TICAD)に出席のため、チュニジアのチュニスに行く途中である。会議出席後は、アフリカ、ヨーロッパと巡り、最後はニューヨークから帰国する予定だ。

 七月終わりに、青森市を訪ね、県の観光連盟の幹部や県庁の局長さんと旧交を温めた話は先月号に書いた。翌日、おいらせ町に行き、仕事のできる町長さんや役場職員さんたちの話を聞いた。

 帰りは三沢空港から東京に戻ったが、せっかく三沢を通るので、日本初の反戦喫茶オウルの跡地を見ようかと思った。

 一九七〇年のことである。私はまだ五歳だから当時の記憶はなく、大人になってから本で知った知識であるが、べ兵連の活動の一つとしてGIコーヒーハウス運動というのがあった。

 読者の皆さんには説明不要かと思われるが、べ兵連というのは、「ベトナムに平和を!」市民連合の略称であり、一九六五年四月に誕生した、日本で初めての市民運動である。代表の作家・小田実は、バックパッカーの先駆けと言われ、その体験記『何でも見てやろう』はベストセラーとなった。

 べ兵連を含むベトナム反戦運動は、日本や当事国のアメリカだけでなく、世界の多くの国で展開され、国際的な連帯によって強められた。人類史上初めての世界的な市民運動であると言ってもよい。

 べ兵連は、交通を妨害するジグザグデモではなく、花を沿道の人に渡す花束デモで有名だが、べ兵連の活動の中には、JATEC(ジャテック。反戦脱走米兵援助日本技術委員会)による、日本国内で脱走した米兵を海外に脱出させる活動もあった。

反戦喫茶の存在意義は

 私の地元、北海道の釧路や根室を舞台にして、米兵をソ連経由でのスウェーデンへ脱走させた第一期、パスポート偽造で脱走米兵をフランスに逃がした第二期を経て、第三期ではGIコーヒーハウス運動を実施した。

 岩国基地の近隣に開店した「ほびっと」(一九七二年開店、一九七六年閉店)が有名だが、最初に開店した反戦喫茶は三沢基地の近隣の「オウル(OWL)」であった。一九七〇年七月に開店し、一九七二年十月に閉店したので、わずか二年弱であった。

 GIコーヒーハウスは、一九六八年一月に米国サウスカロライナ州のジャクソン陸軍基地の近くに「UFO」という名前のコーヒーハウスが作られたのが最初だ。設立の動機は、「兵士を個人に立ち帰らせること、そのためには彼らが集い、語り合う場を設けなければいけない」ということだったと言う。

 米兵も、兵士とは言え、戦争に対する恐怖や理不尽さを感じていた。軍隊内にも人種差別はあり、高級将校による兵士いびりも兵士の不満になっていた。これらのことが反戦喫茶の成立の背景であったと言われている。

 三沢基地近隣の「オウル」は、今はその地名が使われていない「中塩小路」にあり、米軍基地の正面ゲートからわずか百メートルのところにあったという。

 今は、界隈の街並みがすっかり変わっており、「オウル」があったであろう場所にその面影はなかった。街の人に聞くと、以前は、そのあたりに米兵向けのバーなどがたくさんあったが、今はほとんどが姿を消したという。

時代は移り変わる。

筆者プロフィール

石井 至(いしい・いたる)
昭和四十年、北海道生まれ。東京大学医学部卒。フランス系のインドスエズ銀行を経て、平成九年に石井兄弟社設立。同社代表取締役。金融ハイテク技術コンサルタントを行う他、東京にて幼児教室「アンテナ・プレスクール」を主宰。