「全体主義」と言われると、基本的人権の欠如、厳格な法律と厳しい罰則、警察を利用した言論弾圧、政府による監視・検閲などを想像するだろう。かつてのナチス・ドイツやソビエト連邦がそうであり、現代であれば北朝鮮、フィクションにおいてはジョージ・オーウェル著のディストピア小説「1984年」におけるオセアニアが良い例だ。
では「今、日本や欧米は着実に全体主義国家への道を歩んでいる」と言われたらどう思うだろうか。多少違和感があるだろう。現代の西側諸国は前述した全体主義のイメージからかけ離れているからだ。しかし、全体主義の形は一つだけではない。そして今、世界を蝕んでいる全体主義は国家の政策などで簡単に認知できるものではなない。故に極めて恐ろしいのだ。
では、その全体主義の正体とは一体何なのか。その答えは、オーウェルが「1984年」を発表する1949年より17年前の1932年、同じイギリス人作家のオルダス・ハクスリーによって発表された小説「すばらしい新世界」にある。「すばらしい新世界」は「1984年」と同じく全体主義のディストピアを舞台にした小説なのだが、その頁に描かれる統制社会はオーウェルのものとは真逆なのだ。ハクスリーの世界において、民は恐怖と暴力に蹂躙され鎖で繋がれるのではなく、無駄な消費や退廃的思想によって倫理観や向上心を奪われ、ひたすら安全と安心を求めて自ら鎖で繋がれる事を望む。言わば人間性を挫かれた民衆によるボトムアップ型の全体主義なのだ。
「すばらしい新世界」において、世界は少人数のエリートによって支配されており、「共同性、同一性、安定性」のスローガンの元、全人類が一つの共同体として無駄のないよう管理されている。歴史や文化は徹底的に抹消され、家族・一夫一妻制・恋愛という概念は排他的だと蔑まれる。人間は培養ビンで製造され、催眠教育によって赤子の時から読書や自然を恐れるよう刷り込まれ、幼い頃より過度の性教育を受け、避妊具と麻薬が支給され、自分の現状に不満を持たずひたすら消費を続け、快楽を貪る心身共に虚弱な物質主義者として作り上げられていくのだ。
人によってはこれのどこが全体主義なのだろうかと思うかもしれない。物質的に満たされて、好きなだけセックスとドラッグができるなんて自由そのものではないか、と。しかし、無責任かつ生産性の無い物質の奴隷となる事は自由からほど遠い。本来、自由とは他者の定めた規定に従わない事――すなわち己を律し、自身の行動に伴う責任を全て背負うことなのだから。
そしてここまで読めば明白であろう。ハクスリーがおおよそ一世紀前に描いたディストピアが、今我々が生きている社会と瓜二つであるということを。
世界の経済や情報の流れを牛耳る一部のエリートの意向で動かされる世界。政治や思想を持つことを嫌う、無気力で物質主義的な人々。LGBT運動・フリーセックス・夫婦別姓制度などを通して行われる家族という共同体への攻撃。
デザイナーベビーや催眠教育こそまだ存在しないが、我々は幼いころより程度の低い世俗的なヒューマニズムのみを教えられ、文化や歴史をおろそかにし、世に溢れる娯楽に刺激され続けて、読書や自然をつまらないと感じるよう育成されている。
思考能力を持たず、自立心がなく、主義主張を持たず、責任を追うことを避け、価値ある共同体を持たない人間は必然的にそれら全てを国家や超国家的権威に委ねるしかない。そのような自ら奴隷になる人間がマジョリティとなれば、もはや前世紀の全体主義国家のように秘密警察や粛清などは必要ない。これが21世紀の全体主義であり、人間の自由と尊厳を奪わんとする悪しき思想である。
最後に、ハクスリー的な全体主義と戦うということは、偏狭な国粋主義者になれという事ではない。それはハクスリーの逆、オーウェル的な全体主義への道に過ぎないのだから。むしろ我々は憂国の士として、道義を重んじ、よく学び、そして同じく国を憂う世界中の愛国者と対話し、互いの理解を深めるべきだ。なぜならば、それこそがグローバル主義とそれに付随する全体主義に対して最も強い打撃を与える行為だからだ。