『攘夷の作法』七

第五節 蔡に移る帖 唐の太子の太師 顔真卿 ㈡

 岑参(七一五〜七七〇)の漢詩に胡茄の歌として「顔真卿に使いして河隴に赴くを送る」というものがある。

君聞かずや 胡茄の声 最も悲しきを
紫髯緑眼の胡人吹く
之れを吹いて一曲 猶お未だ了らざるに
愁殺す 楼蘭征戍の児
涼秋八月 蕭関の道
北風吹断す 天山の草
崑崙山南 月斜めならんと欲し
胡人月に向かって胡茄を吹く
胡茄の恨み 将に君に送らんとす
秦山遥かに望む 隴山の雲
辺城 夜夜 愁夢多し
月に向かって 胡茄誰か聞くを喜ばん

 唐が最も西域に拡大した頃の詩であろうか。玄宗皇帝の少し前あたりであろう。顔真卿に使いして、とあるから、西域に赴く顔真卿を見送る時の詩である。意訳すると、

「赤い髪、碧い目の胡人の吹く、胡茄の音の悲しき声を、君は聞くであろうか。胡茄の音色は、西の最前線である楼蘭に赴任している兵士を、まだ一曲も終わらぬうちに、深い愁いの世界へ導くのだ。君が赴任する秋、その旅の途中、天山山脈から吹き降ろす北風が、草々をなぎ倒すのを見るであろう。遥か彼方の崑崙山の南に月が沈まんとする時、胡人は月に向かって胡茄を吹く。胡茄の怨みのこもった声で君を見送り、ここ長安の秦山から遠く隴山の雲を見据えれば、最前線の辺境の町では、夜毎、愁いに満ちた夢をみるだろう。そんな夜毎、月に向かって吹く胡人の胡茄の音を、誰が喜んで聞くであろうか。」

 赤い髪、碧い目の胡人と言えば、将に安禄山の容貌である。顔真卿は、この漢詩から推測すると、西域方面を守備する任にあたっていたと思われる。したがって、安史の乱において、胡人の特質を予め知っていたのに違いない。また、安禄山の側に立てば、ちょうど、今のウィグル自治区のあたりの出身であったに違いない。唐から見て辺境も、そこの地を拠点とする遊牧民にとっては、入寇侵略者の何者でもない。

忠節の変遷

 安史の乱で名を挙げた顔真卿は、朝廷に復帰、御史大夫の官を拝命した。徳川幕府で言うならば、大目付、目付、官吏の監査役である。ここで、顔真卿の忠節は十分に発揮される。しかし、これが後に禍となってくる。

 戦後の秩序を回復させるべく、諸事、法令と儀式を厳格にする。また、直言居士的性格が、時の宰相に疎まれ、地方に左遷。しばらくして、上皇になっていた玄宗と粛宗が対立、この状況があってか、顔真卿は、刑部侍郎として、朝廷に復帰、刑部侍郎は、今でいうところの法務次官である。ここでも、顔真卿は上皇と粛宗の間にあって奔走した。しかし、権勢のある宦官、李輔国と対立、顔真卿は左遷された。しばらくして、吐蕃が入寇、(吐蕃とは、今のチベット族が建てた国である。それの唐から見た呼び名、入寇は攻め入ってこられる事である。)

 さて、ここで、粛宗から、時代は代宗の御代になる。顔真卿は尚書右丞の立場にあった。尚書右丞とは、中央政府の行政を総理する省のこと。右丞とあるから、右大臣といったところか。ここでも、時の宰相、元載と対立したので、これまた左遷。ここまで、原理主義の人間も珍しい。今言でいうと、学習能力が無いのかと疑われるが、古言で語ると忠節の極致だと言える。だが、このようなことはまだ続く。

 代宗から徳宗の御代になって、時の宰相は、蘆杞、当然、直言居士忠節の士、顔真卿は、宰相に疎まれる。この御代、李希烈という者が反乱を起こし、汝州が陥落。悪知恵が働く者が、出世するのは、今の時代も然り。宰相蘆杞は、知力あり学問、教養ある重臣を説得に当たらせれば、兵を用いることなく収拾できると奏上、誰かあると、ご下問になれば、三代に仕えた旧臣、顔真卿を推薦した。行けば殺されるのは必定だと、知友の者は言ったが、顔真卿答えて曰く「君命なり、まさにいづくに、これを避けんとする」と。この頃、顔真卿は、太子太師の任にあった。皇太子の師である太師は、乃木希典将軍を思い起こさせるが、ここで、死地に赴くとは、顔真卿本人も思ってもみなかったであろう。

礼官

 玄宗皇帝から四代一太子に仕えた顔真卿は、忠直剛決、忠節無比であった。儀礼を重んじた顔真卿、反乱を起こした李希烈が、帝位を称するため、顔真卿にその儀礼を問うた時、曰く「老夫、嘗て礼官たり、記する所、ただ諸侯の天子に朝する礼のみ」と。『大唐開元礼』を完成させた大唐も、玄宗皇帝の時期を盛りに、滅亡へと転がり落ちていくのである。文武両道、愚直に儀礼を治世の指針とした顔真卿の攘夷の作法がここにある。