〝縄文日本、弥生改新の探求〟補説及び要説

はじめに

 平成十四年に「縄文日本、弥生改新(大国主命・天孫降臨・大和朝廷成立)の探求)」と題して公表した。(「月刊日本」誌八月号〜十一月号)それは『記紀』(『古事記』と『日本書紀』)の始めの主要神話・伝説は、一面で、まさに考古学的に言う弥生時代の史実を神話的に表現したもの、との考えである。

 そしてそれは新渡来人の縄文人制圧ではなく、縄文「日本人」を中心とする改新であり、むしろ以前からの原日本的伝統防衛を意図した大計・行動だっただろう。結論的には新神武天皇実在論だが、内容的に縄文農耕や古代祭祀の問題など、文化面を重視した。この大きなテーマにつき、考古学的諸情報、『記紀』の内容、先人の諸説など多岐にわたり並列したが、説明不足もあった。またその後今日までに重要な情報も続出した。一方で当時話題だった「縄文稲作」の新情報の誤りが、今ではかなり指摘されている様だ。これらにつき新たに補説し、同時に前論考の一応の新要約として、記したい。

日本での稲作興隆は、約三千年以上前から

 前稿公表のすぐ翌年、平成十五年に国立歴史民俗博物館の研究グループが、北部九州の「弥生時代の始まり」を、通説だった紀元前五世紀より五百年早い、紀元前十世紀と確認できたと発表した。これは各時期多数の土器の付着物の、放射性炭素年代測定によるという。(詳しくは「季刊考古学」誌第88号・二〇〇四年八月刊参照)

 つまり、「九州北部では灌漑式水田稲作が、おそくとも紀元前十世紀後半から始まっていた」との、新たな認識である。(同誌二十八ページ)紀元前十世紀、すなわち今から約三千年前といえば、我々が教えられた知識感覚では全くの縄文時代だ。「弥生時代開始」の定義には土器を重視する説などもあるようだが、「本格的な水田稲作の開始期」とすれば、その時期は三千年前よりさらにさかのぼり得る。「弥生時代」という用語の使い方一つでも、考古学界や史学界は大きな問題に直面している。

 私が平成十四年に論じた眼目の一つも、まさにこのことだった。その冒頭で述べているように、弥生時代の「中心的」時期が、紀元前三百年頃から紀元三世紀前半頃まで、と考察した。この「中心的」とは年代的に真中という意味ではなく、重要な変転期の意味である。そして弥生時代の開始時期に関しては、後ろの方で述べているように、日本では縄文時代から稲作が始まっている上に、すでに鉄器が製造されている可能性さえあることを指摘して、定説よりもさかのぼるであろうことを示唆しておいた。
つまり、平成十五年の考古学の新見解は、私の仮説の妥当性を、決定的に強化した。しかし、そこでは弥生時代の年代の古さをそれまでの定説によって表現したわけであり、その意味では訂正を要する。

「弥生改新」の主体は縄文人

 弥生時代の開始期が、より古くさかのぼるであろうことは、すでに平成七(一九九五)年以前から考古学界で論じられていた。つまり当時の年代認識での、「縄文稲作」の存在が認められつつあった。それと同時に、縄文的文化から弥生的文化への大変革は「渡来勢力」により進展した、との漠然とした想像が修正を迫られるようになっていた。

 平成七年に金関恕氏と大阪府立弥生博物館の共著により『弥生文化の成立』(角川選書)が出版された。サブタイトルには〈大変革の主体は「縄紋人」だった〉とある。(縄「紋」との表記は一理あるわけだが、「文」は「紋」の意味を有するので、私見では「文」とする。)

 弥生時代開始的変転は紀元前十世紀頃から始まり、その主体は縄文文化を継続させていた人々だった、との観点が重要になってきた。私はこの弥生時代の大変革につき、まずスサノオノ命(ミコト)及び大国主命(オオクニヌシノミコト)伝説に注目すべきだと指摘した。それは一つには、有名な福井の鳥浜貝塚遺跡、能登の真脇遺跡、富山の桜町遺跡、さらには青森の三内丸山遺跡などを包括する、日本海海岸縄文文化の継承的勢力の存在を象徴する。

スサノオノ命と大国主命の性格

 例えば『古事記』の大国主命伝説に、越の国の沼河(ヌナカワ)ヒメに求婚した物語がある。その地の付近は縄文中期以後全国的に流通した、重要な宝器だった翡翠(ヒスイ)の、大産地だった。そのヒスイは、弥生時代には一層重視され、神器としての勾玉(マガタマ)の、代表的素材となった。『記紀』神話では、天照大神がヤサカノ勾玉をニニギノ命に授けた。出雲大社の社地からも、勾玉の極上品が出土している。そして出雲は九州に劣らない、朝鮮半島との交流の重要地点だった。

 ところで三千年前は、世界的な気候変動の中で重大な時期だった。約一万年前から世界的に気温は急上昇し、約七千年前から約四千年前まで今より高温期だったが、約三千年前からまた急激に寒冷化し、一時は今より寒くなっていた。その後、少し温暖化し、約二千年前からは、今とほぼ同じになっているという。温暖な縄文中期には、長野の八ヶ岳山麓など各地の高原で文化が栄えたが、四千年前頃(後期)からそれが急減する。寒冷化による人々の移動が始まったと考えられる。

 アジア大陸や朝鮮半島でも、三千年前から激動が始まった。司馬遷の『史記』などによれば、殷(いん)と周の争乱の中から、殷の残党が「箕子朝鮮」を建てたのが、約三千年前とのことだ。朝鮮には独自の檀君神話もあるが、古来、大陸の影響が大だった。一方、『日本書紀』(一書)によれば、スサノオノ命は(乱行により高天原から追放され)韓郷(カラクニ)に渡ったが、その後出雲にもどって来た、とある。その子孫とされる大国主命共々、カラとの深い関わりが考えられる。

日本神話の意味多重性

 弥生時代の開始は紀元前五世紀、との定説内で論じた前稿では、私は天照大神とスサノオノ命の物語を、特に紀元前三世紀頃から紀元前二世紀ごろの歴史の象徴的表現で、それは大国主命の国譲り物語と直結する、と推定した。だが、同時に「スサノオノ命は記紀を読むと、一人の人間のように描かれている。しかし、ある集団、部族の歴史を象徴しているとも考えられる。…」とも記した。弥生時代開始が紀元前十世紀と訂正するなら、スサノオ伝説は「スサノオ一族」が朝鮮に渡り、また日本にもどって来たという、長い歴史の凝縮的表現、とも推測し得る。『記紀』の中で大国主命をスサノオノ命の実子とする記述と六世の孫とする記述などが混在することも、歴史の幅を思わせる。

 世界的にも、神話・伝説では一人の人間で一族などの長い時代を象徴させる例がある。『旧約聖書』で「ノアの大洪水」が起きた時、ノアは六百歳だったとある。洪水に生き残ったノアは、九百五十歳まで生きたという。遠く長い歴史は、一人の人や神に凝縮して表現するようになるのだ。

 また神話は、いつの世にもあてはまる事象・原理や、くり返され得る、あるいはくり返された事象を一つの事件として表現することもあるだろう。天照大神とスサノオノ命の物語も、同族の中の男性と女性の生き方や役割の相違、山の部族と海の部族の養子縁組的交流などの神話的表現としても考えられる。(続く)