第234回 一水会フォーラム 講演録

 今を遡ること四十数年、米カーター内閣の大統領補佐官、ブレジンスキーの練った策略は、その後のユーゴ空爆を経て今般のロシア・ウクライナ戦争に至るまで、冷徹にスラブ民族を弄び続けている―。
今回の一水会フォーラムでは、中欧、就中ユーゴ研究の第一人者である岩田昌征・千葉大学名誉教授をお招きし、NATOの対東欧・ロシア戦略工作について考察して頂いた。(文責・編集部)

はじめに

 岩田昌征です。ロシア・ウクライナ問題について、当初私はプーチン弾劾の立場を取っていました。

 私は政治的感慨を和歌に詠む事があります。戦争が始まった頃の三月十七日、以下の四首を詠みました。

 プーチンよ あな禍禍し たらちねの スラブの母の 御魂汚せし

 プーチンを ああ許すまじ はらからの スラブの民の 心砕けり

 そして、プーチンを非難するだけでなく、NATOやゼレンスキーをも批判する歌を詠んでいます。

 NATOをば あな厭ふべし 文伐(ふみうち)が たくみの極み 戦(いくさ)に勝てり

 ゼレンスキー あな呪ふべし 俳優(わざをぎ)が 西の手ぶりに スラブ惑へり

 すなわち、ロシア、NATO、ゼレンスキーを「三悪」とし、中でもプーチンを巨悪と考えていました。これは恐らく、多くの日本人は、木村代表とも私とも異なり、一悪二善の印象でしょう。

 しかし、その後様々なことを調べるうちに、単純に「ロシアが巨悪」とは言えなくなりました。

 ブレジンスキーの仕掛けた罠—七〇年代から画策されていたユーゴ(南スラブ)分割

 冷戦時代の一九七八年八月十三日から十九日にかけ、スウェーデンのウプサラで「第九回社会学者世界大会」が開催されました。米国からも社会学者が参加していましたが、当時カーター政権時代の国家安全保障問題担当大統領補佐官、ブレジンスキーは、この時、大会の主要な組織者であるアメリカのの社会学者数十名を呼び集めて秘密の講演をしています。

それによれば、

・ユーゴスラビアはソ連と対抗する勢力であり、その限り西側は支援する。共産主義の「天敵」である分離主義・民族主義諸勢力を活用する。ロシア人対ウクライナ人、セルビア人対クロアチア人、チェコ人対スロバキア人、中国人対ベトナム人。モスクワとベオグラードの対立では、ベオグラードを支援する。ユーゴ内部の諸民族間対立に関しては、反ベオグラードのクロアチア民族主義等を援助する。

・ユーゴの対外債務増大は、将来、経済的、政治的圧力手段として用いる事ができる。それ故に、もはや貸したくはないロンドンの銀行家達を説得して、対ユーゴ新規信用給与を続けさせるべきである。債権者にとっては一時的なマイナスでも、それは経済的、政治的措置によって容易に保障される。
ここでは、米国が当時からユーゴに向けて民族主義衝突と金融困難を促進する策略を仕掛けていたことが見て取れます。

 大空爆の翌年、二〇〇〇年にユーゴで政変が起こり、ミロシェビッチ大統領は逮捕され、ハーグの国際法廷に送られました。

 「自国の大統領を国外の裁判所に引き渡す」ことは、普通なら考え難いことですが、ここにもカラクリがあります。

 新政権は西側諸国への債務問題に悩まされていました。この時米国は「債務の三分の二を棒引きする」かわりに「ミロシェビッチを引き渡す」という取引を持ち掛け、新政府はそれを呑んだのです。一九七八年当時のブレジンスキーの策略はここでまさに図に当たりました。

 国内の諸民族対立を利用して、政権打倒の策略を仕掛ける…米国の戦略は実に巧妙狡智であり、ある意味で見事だとも言えます。

 東ヨーロッパの一般民衆にとって、米国という国は大変に魅力ある国に見えます。だから大勢が米国に移民しますが、全員が成功する訳ではなく、帰国する人々も多くいます。

 その中には後々「民族主義」を利用する時に役に立つ人材となって帰国する者もいる。旧ユーゴの構成共和国の各民族にもそういう者がおり、それぞれの「民族主義の尖兵」として活躍していました。
ブレジンスキーの策略は当たり、ユーゴスラビア(南スラブ)は九〇年代に多民族紛争が前面化し、分裂してしまいます。

「ハル・ノート」よりも深刻だった「付属文書B」

 九九年のNATOのユーゴ空爆は、セルビア領であったコソボ地域のアルバニア人迫害を防止する大義名分で行われました。

 この構図は、ウクライナ東部ドンバス地域のロシア系住民への迫害を防止する名目で、ロシアが侵攻した事と同形です。

 九九年のセルビアのミロシェビッチ政権は現在のウクライナ・ゼレンスキー政権と構図的に同じ立場にあり、コソボ・アルバニア人はロシア系住民、NATOは現在のロシア・プーチン政権に当たります。

 民族問題は、独立したい勢力にも独立をさせたくない勢力にもそれぞれの大義があり、第三者が「どちらかが一方的に正しい」とは言えない性格の問題です。ところが、米国は自国の世界戦略上の都合で割り切って、アルバニア人の分離独立を支援し、セルビアを非難することに決めます。

 そうなると、支援される勢力は非常にラジカルになります。コソボにおけるラジカルなナショナリストを、当初は米国も警戒して「テロリスト」と認定していました。それが「KLA(コソボ解放軍)」で、ウクライナ軍がATO(反テロリスト作戦)の対象としたドンバスの親露派民兵に当たります。
しかし、九八年六月にテロリスト指定は解除されます。そして、米国国務省の高官がKLAの拠点に赴き、カラシニコフを構えた兵士と並んで写真を撮られました。この写真が、彼らのイメージを「解放者」に塗り替えました。「KLAは正義だ!」というアピールが功を奏して、世界は、KLAを討伐するセルビアを「巨悪」と決めつけ、アルバニア人側は勢い付きます。

 この一九九九年欧米評価基準に従えば、現在の露宇戦争で「ウクライナは巨悪」とされるはずですが、勿論そうはなっていません。「ロシアは巨悪」です。この二〇二二年欧米評価に従えば、一九九九年に「NATOは巨悪」になったはずでしょう。

 空爆の直前、九九年二月にパリ近郊のランブイエでコソボ問題を協議する国際会議が開催されました。セルビア人、コソボ・アルバニア人双方の代表団が招かれましたが、協議と言っても双方が面談する事はなく、米国ら欧米諸国が、自国の価値観に合わせたコソボ完全自治圏像を提案し、両者に合意させる為の国際会議でした。アルバニア側は、不満でも「独立に直通するならば」とサインし、セルビア側も米国には逆らえないから、「実を捨てて名目を保つ」為にサインするつもりでした。

 しかしそれでは、米国のバルカン戦略が実行できない。そこで手交されたのが「付属文書B」でした。

 米軍が紛争地コソボだけではなく、セルビア全土に駐留し、パスポート・ビザの不必要、セルビア民法・刑法の不適用、逮捕・調査・拘束なし、全土陸空自由通行・全インフラ施設無償利用、夜営・訓練・作戦・民泊の自由、無課税・無使用料、全電波周波数自由使用、NATO被雇用者零所得税と言った「地位協定」です。

 日本が米国と結んでいる地位協定は大東亜戦争で米国に敗北し、占領されたから吞まざるを得なかったという経緯がありますが、まだ戦争していない、負けていないセルビアがこんな条件を呑めるはずがありません。当然セルビア側は拒否し、会議は決裂します。そして米国はこれを名目として空爆に踏み切ったのです。

 帝国日本がハルノートを拒否した時、日本は米国を攻撃できる軍事力である連合艦隊を持っていましたから、ハルノートを拒否して真珠湾攻撃に踏み切りました。しかし、内陸の陸軍国であるセルビアはその様な軍事力を持っておらず、ハルノートに当たるコソボ完全自治圏像までは呑めても、それに「付属文書B」が添付されるともはや呑めません。一方的に空爆を受ける事になります。

「七〇〇対一」の戦争—七十八日間のユーゴ大空爆

NATOの対セルビア(含コソヴォ)・モンテネグロ空爆地点(2回以上)1999年3月24日〜6月1日

 ウクライナへの「プーチン侵略戦争」とセルビアへの「クリントン侵略戦争」は、ともにヨーロッパ戦争で、かつ国際法根本侵犯の点で同じですが、両者の違いを述べれば、戦力比が圧倒的に違いますね。ロシアとウクライナの戦力は三対一くらいでしょうが、NATOとセルビアは「七〇〇対一」でした。

 またロシアからセルビアへの武器援助一切無し。それに対して、NATO諸国からウクライナへの大量武器供給。

 当時のNATOは十九か国。三月二十四日の攻撃時には空母三隻、潜水艦七十一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦七隻、フリゲート艦十五隻という戦力で空爆を仕掛けます。

 それが七十八日間連続して行われ、二十四日から三十日までは一日当たり三百機、三月三十一日から四月六日までは一日当たり百八十機が空爆に参加…、五月二十九日から六月六日までの一週間が一番多く、一日当たり四百九十機が出撃しています。

 最終的には「ベオグラードが更地になる!」とおどかされたと言われ、ミロシェビッチ政権が屈服し、戦争は終わる事になります。

 七十八日間の戦争で、NATOが撃ち込んだトマホークの総数は、二月二十四日から九十日の間に、ロシア軍がウクライナに打ち込んだ巡航ミサイルの数に匹敵します。

 ウクライナは人口四千四百万人の中堅国ですが、セルビアは面積でその七分の一程度、人口六百九十万人の小国です。その全土が攻撃にさらされ、都市部は多数回にわたって空爆されています。

 NATO空爆では、ベオグラードのミロシェビッチ大統領殺害を狙った官邸空爆があったし、中国大使館「誤爆」で中国人の新聞記者三人が死亡しました。今の所、キーウ(キエフ)のゼレンスキー大統領殺害空爆も日本大使館「誤爆」もまだ起っていないようです。

 余談になりますが、ウクライナの戦争とセルビア人には、意外な関係があります。

 激戦地であるルガンスク、ドネツクでは、一七五一年にロシア皇帝の勅命を得て、セルビア軍民が呼び寄せられ、屯田開拓に従事しています。オーストリア帝国の沿ドナウ軍事クライナからセルビア人騎兵隊を先頭に数千家族が入植しました。

 当時の文献史料にはそこが「ウクライナ領」だと示す記述はなく、セルビア人が開発した二つの地域は、「スラビャノセルビア」、「ノヴァセルビア」と呼ばれていました。

 その後ロシア人等との混血が進み、セルビア文化は消失してしまい、かろうじて地名にその痕跡のみ見る事ができますが…。今日彼等の子孫達がロシア人として、あるいはウクライナ人として血を流し合っています。

 さらに言えば、ドンバス地域に移住したセルビア人は、その半世紀前は「コソボ」に住んでいました。

 コソボに定住していたセルビア人が、一六八三〜一六九九年のトルコ・オーストリー戦争の結果、土地を追われて行き着いたのがドンバスだった…こんな奇縁を歴史から見る事ができます。

 話を戻しますと、NATOのユーゴ侵略戦争が起きている最中、首都ベオグラードのヘルシンキ人権委員会議長だった、人権活動家ソーニャ・ビーセルコ女史は、空爆下のベオグラードを脱出し、渡米しています。

 九九年四月末に彼女は当時の国務長官オルブライトと面談し、「セルビアのナチス的なナショナリストを叩くには空爆だけでは不十分だ。米国は地上軍を派遣して、セルビアを占領して欲しい」、「ミロシェビッチを国際裁判にかけるように」と要請しています。

 この手の人達は、「人権」という概念には「国権」を踏みにじるのに十分な価値があると考えているのだと思います。我々は国権と人権を両方とも大事だと考えます。人権を優先する人達は、人権を守るために侵略戦争をも容認します。こうすっきり割り切って心が痛まないのでしょうか。

 ビーセルコが米国に「セルビア占領」を要請した経緯は、セルビア国内では知られていませんが、米国紙には記事として掲載されており、事実であったことと認識できます。
ここで二首(令和四年四月十日詠)

 国権は 人権ととも 民生くる 型にこそあれ 忘るるなゆめ ビーセルコに贈る

 人権は 国権ととも 民栄ゆ 型にこそあれ 忘るるなゆめ プーチンに贈る

 NATO首脳陣を「有罪」と裁く―ベオグラード管区裁判所の判決

 人権を守る為には祖国への侵略戦争すら歓迎すると言うのが、欧州の一部の人権活動家であり、それほどに「人権」を優先する国として米国を崇敬しているのでしょう。

 空爆には劣化ウラン弾も使用された事が後に分かっていますが、空爆後に汚染地域に進駐したイタリア軍兵士が被曝し、帰国後に発症して大問題となりました。

 イタリアでは多数の訴訟となり、被曝者側は勝訴、イタリア国家は敗訴しています。コソボ現地住民も健康被害が出ているはずです。セルビア人の間では問題となっていますが、米国のおかげで「独立」を達成したコソボ・アルバニア人は、健康被害が出ても、黙して語れないのでしょうか。私には情報がありません。

 さて、私は「大和左彦」を名乗り、自称「左翼」です。そんな私から見て分からないのは、日本の保守・右翼が米国に甘く、彼らの戦争犯罪を問おうとしないことです。

 先の大戦で米軍も無差別爆撃、原爆投下で多くの民間人を殺傷しました。これを裁く日本国民法廷、倫理的法廷が戦後開かれたことはありません。

 女性国際戦犯法廷が二〇〇〇年十二月に東京で開かれました。旧ユーゴ戦争犯罪ハーグ国際法廷でセルビア人戦犯を裁いたアメリカ人裁判官が故・昭和天皇に有罪の判決を下しました。

 千代田区九段の旧軍人会館で開かれたこの市民裁判は、日本国民の自己認識の深化に資する事件だと思います。しかしながら、ここにとどまるだけでは片手落ちというものです。

 米国の戦争犯罪を問い、裁くのは、保守・右翼の役割のはずだと思いますが、この点はずっと沈黙が続いています。

 セルビアでは、ミロシェビッチ政権下の二〇〇〇年八月、ベオグラード管区裁判所で「NATOの戦争犯罪を裁く」裁判が開廷されました。市民裁判や国民裁判ではなく、正式な国家裁判です。

 ここで、当時の責任者であるクリントン米大統領、ブレア英首相、ヨシカ独外相、ソラナNATO事務

 局長等に有罪判決が下され、全員に「刑期二十年」が言い渡されています。

 この裁判は被告がいない「欠席裁判」でしたが、ちゃんと弁護士も付けられ、最高裁に上告する事まで行われました。

 この直後の十月にミロシェビッチ政権は市民革命で打倒され、親米リベラル政権が誕生します。しかし、この裁判の判決を無視する事はできない。有罪とされたNATO人士がセルビアに入国すると逮捕しなければならないからです。

 結局は最高裁判所にリベラル市民政府が圧力をかけ、「最高裁判所は先のNATO有罪判決を無効とする」と、最高裁判所長官に宣言させます。判決を下したベオグラード管区裁判所の判事達や無効化を無法と見る最高裁判事達は、心痛で亡くなるか、弁護士に転ずるか、入獄することになりました。

 このようにして、NATOや米国は大空爆後、セルビアに自分達に味方する政権を作ったのですが、その本音に関しては、OSCE(欧州安全保障協力機構)の副議長も務めた、ドイツの国会議員、ウィリ・ウィムメルの手紙に表れています。

 ウィムメルは二〇〇〇年四月二十五日のNATOワシントン会議後、四月二十八〜三十日にスロバキアで開催されたNATO加盟国・加盟候補国の首相・外相会議に参加し、この討論内容に関して当時のシュレーダー独首相に手紙を書き送りました。

 「コソボを国家承認する」、「セルビアは国際社会から追放する」に加えて、「NATOが活動する為には、欧州の法秩序は邪魔である。米国的な法秩序を欧州に導入すべき」と述べられ、「NATO空爆は第二次大戦中、アイゼンハワーが犯した過ちを正すものである」とも書かれています。

 アイゼンハワーの過ちとは、第二次大戦後バルカン地域に米軍を駐留させなかった事であり、今こそこの地域を西側領域に組み入れるべきだと述べています。

 「NATOはローマ帝国の最盛期の様に、バルト海からアナトリアまで空間的に拡大すべき」、「その間にある東欧諸国を取り込むが、セルビアは欧州的な発展から恒常的に排除する」、「ポーランド北部からサンクト・ペテルブルクの入り口を封鎖し、ロシアの進出を防ぐ」、「国家自決権は国際法の他の諸規約に優先する」ことがこの時の会議で承認されたと、ウィムメルはシュレーダーに報告したのです。

 これを見ると、NATOのセルビア空爆が偶発的に起きた訳ではなく、かねてから用意周到に練られた戦略方針にそって計画実行されていた事が伺えます。

 また、十月に起きたミロシェビッチ政権打倒の市民革命には米国務省が背後で暗躍し、隣国ハンガリーのブタペストにそのための指令訓練拠点が設けられていました。

 この詳細に関しては、米大使ウィリアム・モンゴメリーが、本に書いています。

 ミロシェビッチ政権が安定していたのは、彼に対して諸野党が統一候補を立てられなかった事にありますが、米大使は大統領選挙の前に野党指導者達を個人的に訪ね、説得して統一候補を立てさせています。

 どうしても立候補したいと強情をはる者には、選挙期間中にエーゲ海の島で休暇してもらい、勝利後に要職につける約束をしています。御本人に三度、その妻に一度会って説得しています。モンゴメリー大使が実名入りで書いています。

 外国の大使が国内の政治家に会い、候補者を調整させる…等、日本の政治ではあり得ない話と思いたいですが、米国はそれを公然と行い、「市民革命」を成功させたのです。「暗躍」ではなく「陽躍」と言うべきでしょうか。

 かくして、ハーグ旧ユーゴスラヴィア戦争犯罪国際法廷の被告席に立たされた者は、NATO空爆に関しては、侵略された側セルビアの指導者達だけであり、侵略した側のNATO指導者達は国際人道法に全く違反していないと前提されることになったのです。露宇戦争に関して、仮に国際法廷にプーチン側の被告人は一人も無く、ゼレンスキー側の被告人が多数であるような情景を想像しよう。そんなとんでもない事態が十数年前に出現したのです。

ブレジンスキーのもう一つの罠—「ロシア解体」

 このユーゴ(南スラブ)で起きた悲劇が、現在のロシア、プーチンの政策に影響しています。
二〇一四年四月十七日、クリミア編入の直後、プーチンはモスクワのテレビに出演し、視聴者からの質問に答えています。

 その中でサンクト・ペテルブルクの一視聴者からの質問に対し、「彼ら(西側)は私達(ロシア連邦)をバラバラにしようとしている。彼らがユーゴスラビアに対して何をしたのかを見なさい。」

 南スラブ(ユーゴスラビア)がバラバラにされた様に、東スラブ(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)もバラバラにされるかも知れない…と、当時から危惧していたのです。

 「ある人は同じ事を私達にやろうとはっきりと望んでいる」とも述べていましたが、「ある人」とは冒頭で説明した、ブレジンスキーのことでしょうか。

 私は過去に、「ちきゅう座」のサイト(二〇一四年五月二日付)でこの様子を紹介しましたが、この時には「プーチンという強い大統領が口に出すべき事ではなかった」と書きました。バラバラにされる弱みがあっても胸の内に潜めておくべきで、口に出してしまった所にプーチンの弱さが見られ、これを受けて、私なりに「将来の事件」を想像しました。

・モスクワは社会主義体制という抽象を防衛する為には核兵器を使用できなかったが、しかしロシア、あるいはロシア民族という歴史的具象を守護する為には、核を使用するかもしれない。

・ロシア連邦が解体の危機を回避できた場合、日本は北方領土にいかなる外国の軍事基地も置かせないという安全保障をロシアに与え、北方領土をロシアにとって死活的利益ではない事を納得させ、北方領土を回復する。

・ロシア連邦が核戦争なしに解体して、モスクワ国家がイワン雷帝時代の領域に縮小し、極東・北アジアに極東ロシア人を中心とする多民族国家「北アジア共和国(仮称)」が誕生した場合、日本は千島・樺太交換条約を復活させる。

 あくまでも八年前に行った可能性・予想であり、私はロシアがこんなに弱くなって欲しいと願ってはいませんが…。

 ブレジンスキーは、ロシアに対して「解体戦略」を取っていました。日本語で書籍が出ており、確認する事が出来ます(『ブレジンスキーの世界はこう動く』日本経済新聞社 山岡洋一訳)。

 一九九七年、すでにブレジンスキーは、「新規加盟国の領土へのNATO軍駐留と核兵器配備を制限すれば、ロシアの当然の懸念を和らげるかもしれないが、その様な保証を与える際には、ロシア側も戦略的に脅威になり得るカリーニングラードを非武装化し、NATOとEUに加盟しうる国との国境近くへの大規模な軍隊の配備を制限して、同等の保証を提供しなければならない」と書いています。まだNATOに新規加盟国がなかったこの時期に、すでにこのような構想を描いていたことは注目すべきです。

 さらに彼は「ロシアを分割し、ヨーロッパ・ロシア、シベリア・ロシア、極東ロシアの緩い連邦に移行させる」とも書いています。仮にロシア人が「米国を大西洋アメリカ、太平洋アメリカ、スペイン・アメリカの緩い連邦に移行させる」なんてことを言ったら大問題になりますね。ロシアに関してなら何を言っても許されるというものではではありません。

 モンゴメリー大使が書いていますが、バルカン・南スラブの国際情勢は米国、ワシントンにいる二〇〇名の人間が決定する事であるようです。東スラブにしても、中国にしても、あるいは日本にしても、夫々に二〇〇名の意思決定集団がワシントンにいると言えるのかもしれません。国際外交に関して言えば、アメリカの選挙で一喜一憂するのはあまり意味がないようです。

 ウクライナの大統領顧問アレストビッチが「対ロシア戦争を契機にウクライナはNATO加盟をはたす」と二〇一九年にテレビで宣言している事は、前回の当フォーラムで木村代表も指摘していましたが、もう一つ。駐ベオグラード・ウクライナ大使のアレクサンドロビッチは今年三月二十七日、ベオグラードのテレビに出演し、「ロシアの核脅威に対して妥協する事はあり得ない」と述べ、徹底抗戦を示した上で、「戦争の終結は、交渉できまるのではない。戦場でだ。それはロシア連邦の敗北であり、ロシア連邦の解体だ」とはっきりと断言しています。これを見れば、衝突の初めからウクライナ大使が「ロシアの解体」を口に出したのです。それがあり得る目標状態であると、ウクライナ側で思念されていた事が分かります。しかし、残念ながら日本のメディアはこれを報道しません。

 最後に、欧米諸国と日本は「G7」で括られます。十七世紀以来の欧州北西部で近代社会科学思想を誕生させた文明圏の後継諸国がG6であり、後発ながら、それを学んだ国が日本、あわせてG7。
他方、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)は、「近代社会思想・近代社会科学を生み出さなかった諸文明圏」の子孫です。

 近代社会思想は欧米社会の自己啓蒙思想でした。全世界の知識人は、自己の社会認識をG6起源の社会思想・社会科学の概念システムを用いて表現する他に表現のしようがありません.G6出身の知識人は殆ど一〇〇パーセント自分の社会意識をそれで表現できるでしょう。BRICS出身の知識人は自己の社会意識とその表現の不一致に苦しみます。日本人知識人は両者の中間にいるはずですが、それを自覚すると、戦前の皇国史観や近代の超克論の罠にはまることを恐れて口に出しません。G7の一員を強調します。

 今回のロシア・ウクライナ戦争以前から、近代社会思想の普遍化力が弱まってきていましたが、この傾向が今度の戦争によってより明らかになったと感じます。

 BRICS間に共通する普遍性は見られませんが、G7の普遍性の枠だけだと自分達の社会が弱まり生きて行けないと言う否定形の共通性が見られるだけです。要するに、全人類社会が納得する深普遍は未発見。

 この戦争の行く末によっては、ロシアが弱体化し、中東欧諸国、たとえばポーランドが近世期の様なヨーロッパ大国に復活する可能性を生み出すにしても、世界史を画する大意を有する事件ではないのではないか、と私は考えています。