第235回 一水会フォーラム 講演録

 『月間レコンキスタ』でも連載記事で詳細を報じている通り、神社本庁の混乱はなかなか夜明けが訪れない。

 果たして神社本庁は体制を一新して自浄の道を歩むことができるのか?

 今回の一水会フォーラムは国交省OBにして、奈良県宇陀市の三島神社禰宜・山口智氏を招き、神社本庁の「危機」を語って頂いた。(文責・編集部)

正しい玉串拝礼を知っていますか?

 今日は神社本庁の問題についてお話をする予定ですが、スキャンダル的な話だけでは薄っぺらな内容になってしまうので、「神社本庁はどういう経緯でできたのか」を説明する為に、まず神道の歴史から皆さんにお話ししてゆきたいと思います。

 実は本日は神職の装束である白衣白袴を身に着けて来ようかとも思いました。神職の中には講演をする際、こうした装束を着る方もおられます。しかし、神道の主流の考えからするとこれは「邪道」とされます。

 仏教の僧侶であれば、建前上は出家しており、既に聖なる世界に入っている人ですから日常生活でも専用の装束を着て過ごしますが、神主は「俗人」なので、普段は食べ物に関するタブーなどもなく普通に日常生活を送ります。但し、神祀りを行う際には身も心も清らかでなければならない。昔は神祀り前には一月以上精進潔斎をして臨んだものでした。

 「私は神の前に立てる、清らかな状態ですよ」ということを表わすのが白衣ですから、こういう講演の場で、俗人として喋る場合に神職の恰好をして出て来るのは、邪道ということになるわけです。

 さて、昨年、三島由紀夫、森田必勝両大人命(うしのみこと)を祭る「恢弘祭」が斎行されました。そこで拝見した限り、玉串拝礼を正しくできている方は、残念ながら一人もおられませんでした。そこで、本題の前に、皆様に正しい玉串拝礼のやり方をお教えします。

 神職から玉串を受け取る際、多くの方は玉串を聖なるものと思って、思わず押し頂いてしまいます。まずこれが間違いですね。右手は「取り手」として上から、左手は「添え手」で下から玉串を受け取るのが正しい作法です。

 玉串を受け取ったら、玉串を「案」(「あん」といい、机のような台のこと)に置くのですが、いきなり案の前まで行かず、手前で一旦立ち止まり十五度のお辞儀をする。次いで左足から三歩進んで四歩目で足を揃え、四十五度のお辞儀をします。

 そのあと玉串を時計回りに回し、榊(さかき)の根元を神前に向けて置くことは皆さんご存じなのですが、ここでの一番大事な作法を神社では教えていないことが多いです。

 まず玉串を時計回りに回して体と並行に「立てる」のが正しい作法です。自分の祈念あるいは神様に対する感謝の意を玉串に込め、込めた後に玉串をさらに回し、案に置く。

 そして「二拝二拍手一拝」を行います。「二礼二拍手一礼」とも言いますが、正しくは「礼」ではなくて「拝」です。お辞儀をする際、手は最初は身体の横に、拝をする時には手は前で、膝頭の上あたりに添えます。ちょうど角度は九〇度、最敬礼の角度であり、これを「拝」と言います。多くの方が四十五度程度で止まりますが、これでは神様に失礼ですよ。

 拍手をする際には右手は少し引きます。左大臣は右大臣より偉い様に日本の儀礼では左が上位です。右手がバチで、左手が太鼓の面の様になり、良い音が出やすくなる、ということもあります。

 そして、また深い一拝をしたら次に四十五度のお辞儀をして、右足から三歩下がり四歩目で足を揃える、十五度のお辞儀をする。ここまでできれば完璧と言えます。

 「玉串を立てる」とは祈念を込める行為であり、大変重要です。神社本庁が主導して正しい作法をもっと教えるべきです。

神道史上の「宗教改革」(?)—吉田神道の成立

 さて、本論に入りますが、まずは今日の神社本庁に至るまでの神道の歴史を説明します。

 古代日本では、宮中祭祀を中臣氏と忌部氏が担当していましたが、大化の改新で中臣氏は政治権力を握る一方で、忌部氏はその後絶えてしまいました。中臣氏の嫡流は、鹿島神宮の鹿島則良宮司です。

 國學院大學の岡田荘司名誉教授の研究によれば、古代の祭祀では、祭祀権が天皇祭祀と地方祭祀に分かれていました。

 律令体制になりますと、宮中祭祀と地方の官社の監督を行う「神祇官(じんぎかん)」が置かれます。また、政務を行う「太政官(だいじょうかん)」が置かれ、二官体制となります。

 平安時代の後半から、神祇官の長官である「神祇伯(じんぎはく)」は、花山天皇の子孫である白川家が世襲で務めることになります。

 しかしその一方で、「卜部吉田家」が台頭してきます。吉田家は元々神祇官で「亀卜(きぼく)」を担当していましたが、室町時代に、吉田兼倶が革命的あるいは詐欺的とも言ってよい手段を使い、白川家を追い落として権力を握りました。

 吉田家は「神祇長上(じんぎちょうじょう)」を名乗り、全国の神職に対して免状を出す「家元」的な立場として君臨し、全国の神社と神職を支配する様になります。

 このようにして確立されたのが「吉田神道」です。それまでの神道では「本地垂迹説」が唱えられており、「仏」が本地(本体)で、神道の神々はその垂迹(仮の姿)とされていました。吉田神道ではこれを逆転させ、神道の神が本地で、仏が垂迹であるとする「反本地垂迹説」が唱えられます。これは神道における「宗教改革」と言って良いでしょう。

 この吉田神道のやり方は、時の天皇や幕府にアピールするために密教の儀式を取り入れる等、かなり強引でした。当然反対する者も現れます。

 その一つの担い手が「伊勢神道」でした。豊受大神を祀る伊勢神宮の外宮(げくう)は、内宮(ないくう)との対抗意識もあって、吉田神道とも対立する独自の神道(度会神道、外宮神道とも呼ばれる)を先に築いており、これは、吉田神道とともに明治維新まで続きました。

 明治維新では「王政復古」が叫ばれ、これは建前上「神武天皇の創業への回帰」なので、古代祭祀の復活の一環として神祇官の制度も復活します。

 それまでの徳川幕府は仏教を優遇していました。寺は江戸時代、宗門人別帳で住民の戸籍を管理する「役所」として機能していました。

 仏教が優遇される中、神道神社は割を食っていたのですが、明治維新になると、神道は国民精神の中心となることを期待されるようになりました。

内務省官僚による神社管理—「国家神道」の実態

 開国でキリスト教が国内に浸透するようになり、それを防止するために神道を使おうという目論見が政府内でありました。

 明治政府は当初、神道を国教化して日本民族統合の精神的支柱にしようとしたのですが、伊藤博文らは、それには無理があると認識し、皇室に国民統合の役割をしてもらうこととします。

 「日本の神道は明治時代に作られた」と、極端な学説を唱える人もいるように、確かに今日の神道の姿は明治時代に整えられたものです。

 この神道の確立に大いに貢献したのは内務省でした。当初復活させた神祇官は省庁改編で消滅し、最終的には一九〇〇(明治三十三)年、内務省神社局が設置され、全国の神社と神職を管理化に置きます。なお、昭和十六年から二十年までは、神社局を昇格させ、内務省の外局として神祇院を置きました。これが所謂「国家神道」であり、内務省管轄になってから神道は「非宗教」的になって行きます。

 明治政府は建前上、「信教の自由」を保障する一方で、国民精神の支柱として神道を利用しようとしましたが、神道だけを特別扱いできにくかったのです。この矛盾を解消するため、政府は何と「神道は宗教ではない」という珍説を唱えます。そして「宗教ではないから布教活動はしてはいけない」とされ、神道は一気に形骸化します。

 「宗教ではない」と国から定められた訳ですから、誰も教義の研究はしなくなります。単なる祭祀機関となりますね。ある意味、非常に「気楽な宗教」となりました。

 これに反発し、宗教活動を独自に行ったのが出雲大社であり、天理教、黒住教、金光教等の「教派神道十三派」でした。

 國學院大學の阪本是丸名誉教授(故人)は、「国家神道とは内務官僚による神社と神職支配である」と述べています。また、皇学館大学の新田教授も同様の学説を唱えています。

 まさに「役人が主導する神道」でしたから、役所と同じ様なシステムで神職も管理しようとします。まず神社を格付けし、「官幣社」と「国弊社」に分け、さらに大・中・小に分類します。そして神職を官吏のようにランク付けし、学階、学正、司業(今の浄階・明階・正階・直階)といった階位を作り、さらに勅任官、奉任官、判任官(今の特級・一級〜四級)と級付けし、装束にもこれらの区別を反映させました。

 この内務省管理の神道、国家神道は敗戦まで続いたのですが、敗戦と共に内務省自体が解体され、終わります。

内務省神社局の後継組織—神社本庁の誕生

 私が以前『よみがえれ、霞が関』(展望社、令和四年一月刊行)を書いた時に調べましたが、内務省はかなり格の高い役所で、今日の財務省の比ではない力を持っていました。GHQは、占領統治の前に日本を研究し、内務省が日本の官僚機構の力の源泉だと気付きます。そこで、これを解体し、警察庁・自治省・建設省に分割したのです。

 内務省の消滅とともに神社局、神祇院も消滅したのですが、一方でGHQは国家神道に対して一九四五(昭和二十)年十二月十五日に「神道指令」を発動し、国家による神社管理を廃止させます。

 米国は、特攻隊に見られる様な日本兵の戦闘力の凄まじさに驚き、その精神力の源泉は神道にあると判断しました。日本人の精神的支柱である神道を解体し、神社が国民に与える影響をその財政的基盤から弱体化させようと考えたのです。この神道指令によって、政府による神社管理が廃止され、財政援助も撤廃されました。

 GHQは靖国神社の解体も計画していました。これに対し、一番強く反対したのはローマ・カトリックの本山、バチカンの教皇庁でした。

 バチカンは、靖国神社のような慰霊のやり方は正当なものであると考えており、このローマ・カトリックの反対を受けてGHQは靖国の解体を断念しました。現在でもバチカンは、靖国に対して相当な理解があると見られます。

 さて、この神道指令を受けて、「このままでは潰される」と強い危機感を抱いた神社界は、GHQに対抗できる組織を作らねばならないと考えます。そして、皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会が協力し、葦津珍彦氏たちの尽力の下、一九四六(昭和二十一)年二月三日に誕生したのが「神社本庁」でした。

 同時に四十七都道府県に神社庁が設置され、約八万社の神社が加盟。公認の神職は約二万人の組織となりました。

 しかし、全部の神社が加盟したのではありません。京都の伏見稲荷大社、靖国神社は加盟していません。靖国は戦前、内務省ではなく陸海軍の管轄であったことが大きいでしょう。

 神社本庁のトップは統理であり、歴代統理は旧皇族、旧華族関係者が務めており、皇室ともつながる「権威」の象徴です。対して、総長は実質的な運営を担当するポストであり、これは「権力」を司っているといってよいでしょう。

神社本庁を腐敗させた「田中・打田体制」

 問題が生じたのは第十八代総長、矢田部正巳氏(三嶋大社宮司)の時でした。副総長に田中恆清氏(石清水八幡宮宮司)が就任していますが、この時に起こったのが二〇〇四(平成十六)年の明治神宮の本庁脱退事件でした。

 矢田部氏・田中氏と、明治神宮宮司・外山勝志氏との間には以前から軋轢がありましたが、事件のきっかけとなったのは明治神宮側のミスでした。

 当時の天皇、皇后両陛下の明治神宮御参拝(御親拝)の際、総代等に出した案内状に、両陛下と書くところを「両殿下」と誤記してしまいます。

 宮内庁は、「こういう間違いが今後起こらないように注意して下さい」という大人の対応を示しましたが、神社本庁は「けしからん!」と猛烈に抗議し、外山宮司の進退伺いを出すように迫ります。そのあまりにも強圧的な対応に対し、明治神宮は本庁からの脱退を宣言します。なお、明治神宮は、その後二〇一〇年に本庁に復帰しました。

 二〇一〇(平成二十二)年に田中氏が総長に就任してからは、神社本庁の強権的体質にますます拍車がかかります。

 そもそも総長は、一期三年、長くても二期六年務めるのが通例なのですが、田中氏の場合は、四期十二年という異例の長期政権となりました。さらに本人は、五期目もやりたいと希望しているのです。ここまで長期政権となると権力は必ず腐敗します。

 田中氏の片腕となったのは、静岡県の小國神社宮司で、神社本庁の政治部門と言ってよい「神道政治連盟」の会長を務める打田文博氏です。打田氏が人事などに口出しし、田中氏はそれに従うという、「田中体制」と言うよりは「田中・打田体制」と呼ぶべき実態です。

 この体制下で発生した問題が、二〇一五(平成二十七)年十月、田中氏が打田氏と相談し、神奈川県川崎市にある基本財産である百合丘職舎の土地建物を、打田氏と親しい不動産業者「ディンプル・インターナショナル」に売却した事件です。

 この時の売却値段は、鑑定価格の二億五千万円を大幅に下回る一億八千万円でしたが、即日ディンプル社は転売し、三千万円近い利益を得ています。ディンプル社は千葉県木更津にある暴力団組織と密接に関係があるとされる業者であり、後の東京地裁での訴訟の中でも田中氏、打田氏との関わりが指摘されています。

 この売却劇に「おかしい!」と声を上げたのが、当時本庁総合研究部長の稲貴夫氏でした。稲氏は、この「背任行為」を糾弾する文書を作成し、内部告発します。

 これに対して神社本庁は、稲氏をいきなり懲戒解雇とし、また田中氏を公然と批判した教化広報部長の瀬尾芳也氏も降格処分とすることで、強引にこの件の幕引きを図ります。

 稲氏、瀬尾氏はこれに対抗し、神社本庁の処分に対する身分保全を求めて東京地裁に提訴しました。そして一審、二審とも原告側が全面勝訴、今年四月二十一日の最高裁決定も本庁側の上告を棄却したので、神社本庁の全面敗訴が確定しました。

神社本庁は自浄できるのか―芦原新総長に期待を

 「神社本庁の財産を恣意的に幹部の友達に安価で売り飛ばす」などというのはどう見ても背任行為であり、本来なら背任罪で刑事告訴すべき案件でした。そこまで至らなかったので、「田中・打田体制」は延命してしまうことになります。

 「田中・打田体制」では、両氏と親密な関係にある「お友達」が人事や表彰、階位・等級の昇位・昇級で優遇されるということが公然と行われています。結果として、ふさわしい人材は後回しにされるといった情実人事が横行しています。また、あまりに権力的なやり方に不満を抱いた神社が本庁を離脱するという事態が相次いでいます。

 宇佐神宮では、地元の人たちが平安時代から続いている有力な社家の女性神職を宮司にしようとしましたが、本庁側はこれを拒否し、田中氏の側近である本庁の総務部長が「落下傘」として宮司に任命されました。さらに、田中氏が宮司をしている石清水八幡宮の神職を権宮司として送り込んで、「乗っ取り」を図っているわけですから、地元からは大変な反発を受けており、この人事に反対する署名活動も行われました。

 奈良県の橿原神宮でも、橿原神宮側が具申しようとした、権宮司で、かつ、宮司代務者であった有力者が田中氏に批判的であるとして、田中氏が責任役員を京都の高級料亭に招くなど卑劣な方法で根回しをして宮司就任を阻止するという工作まで行われました。

 東京の富岡八幡宮では、社家である富岡家が代々宮司を務めていましたが、富岡家の長女である女性神職を宮司にしようと具申するも本庁が拒否。富岡八幡宮は、本庁を脱退し、その女性神職が宮司に就任しました。なお、この女性宮司の弟がこれに反発、二〇一七(平成二十九)年に姉である宮司を刺殺し、自分も自殺するという痛ましい事件が発生しました。

 その他、有力な神社として、気多大社、金刀比羅宮、京都霊山護国神社、梨木神社、建勲神社が脱退しています。

 神社本庁内部は、混乱の極みにありますが、今年五月二十六〜二十八日に開催された定例評議員会で出席評議員から田中・打田両氏への批判が相次ぎ、評議員会閉会後直ちに開催された新理事による役員会で、鷹司尚武統理は、旭川神社宮司の芦原高穂氏を新総長に指名しました。

 神社本庁の基本規則である「庁規」では、「総長は、役員会の議を経て、理事のうちから統理が指名する」(第十二条)とあり、鷹司統理の英断で「田中・打田体制」もようやく終止符となると思われましたが、ここで「待った」がかかります。

 六月二十三日に行われた役員会では、出席理事十五名中、田中派の理事たち九名が「統理が議長となる慣例」に異議を唱え、議決によって自派の理事を議長とし、鷹司統理が行った指名を無視して「田中氏を総長」とする議決を行ってしまいました。

 あまりにも強引な手法であり、一部報道では「南北朝」とまで言われる事態となってしまいました。

 さらに、田中氏は、芦原氏の住所地を管轄する旭川地裁に、総長身分保全の仮処分申請を行い、旭川地裁はその旨の仮処分決定をしてしまいました。これに対し、芦原氏の代理人が旭川地裁に異議申し立てを行い、現在三名の裁判官で合議中となっています。仮処分決定がどちらに転んでも、不服なほうが抗告することになるでしょうから、結局札幌高裁まで行き、決着が着くのは秋ごろになるでしょう。神社本庁の混乱状況はそれまで収まらないでしょう(注、その後、八月八日付けで、芦原総長は、東京地裁に総長の地位確認の訴訟を提起しました)。

 神社本庁の問題については、鷹司統理が「このままでは後世の批判に耐えられない」と、抜本的改革の意向を示しておられますから、正常化の方向へ向かうとは思われますが、田中派はまだまだ抵抗するでしょう。

 本庁の役員選出システムにも問題があります。普通にやれば、出席理事十五名(理事の定員は十七名)の内九名が田中派、と言う事態にはならないはずですが、評議員会において単純に票の多い順で決まるのではなく、各地域の意見を満遍なく反映させるということで、ブロック体制を取っているのです。ブロック内の理事選出方法は各ブロックに任されており、その多くのブロックで、田中派の者が多数派工作をするのです。このシステムが良いほうに機能すれば民主的で良い制度なのですが、悪用されてしまうと、腐った体質を改善させるには障害となってしまうのです。

 裁判所の力を借りなくては事態を変えられないというのは恥ずべき事態であり、もはや神社本庁が存在理由を失ったのではないかと思う人もあるでしょう。しかし、神社にとって欠かすことのできない、質の良い神職を確保するためには、神職の任命、研修機関としての神社本庁はやはりどうしても必要です。

 芦原新総長の下、体制が一新されれば、今まで排除されてきた有能な人材が活躍の場を得て、神社本庁も正常化の道を歩むでしょう。私はこれに期待しています。(了)

【プロフィール】
山口 智(やまぐち・さとし)
昭和27年奈良県宇陀市生まれ。昭和50年京都大学法学部卒業。メキシコ州立自治大学留学、国家公務員上級甲種法律職合格。ILO(国際労働機関)ジュネーブ本部勤務。在コロンビア日本国大使館一等書記官、建設省情報管理室長、財団法人建設経済研究所研究理事等、中央政府及び政府関係機関の様々なポストを歴任。
平成13年、神社本庁資格検定試験権正階合格。平成14年、神社本庁より権正階を授与され、宇陀市にある三島神社禰宜に任命される。平成18年、神社本庁資格検定試験明階合格、平成25年、神社本庁より上級神職資格である明階を授与される。
主な著書に、『英和対訳神道入門』(戎光祥出版)、『英和対訳神道案内』(戎光祥出版戒光神出版)、『よみがえれ、霞が関』(展望社)等。