238回 一水会フォーラム 講演録
山田 詩乃武 先生〈歌人、文筆家〉
註一:順徳天皇は、順徳天皇、順徳帝、順徳上皇、順徳院、佐渡院などと称されます。ここでは主に順徳天皇と表しますが、状況に応じ変えています。
註二:歴史的人物含め人物表記については統一を図るため敬称を略させていただきます。
①順徳天皇と北一輝
順徳天皇が「承久の変」で敗れ、佐渡にご遷幸されて昨年二〇二一年で八百年になります。これから、順徳天皇と北一輝について話していきますが、まず、順徳天皇の配流地で北一輝の生誕地である佐渡について話したいと思います。私自身も佐渡で生まれ育ちました。
佐渡は日本海上に浮かぶ国内最大の島です。七二四年に当時の律令制において「遠流(おんる)の地」と定められました。以後、貴族文化、武家文化、町人文化が混淆した独特の文化が醸成されました。ですから、佐渡は芸能、文化、歴史が凝縮した島となり「日本の縮図」とも評されます。かつて大陸との交流は日本海側が中心でした。
私は、順徳天皇の御陵のふもとに生まれ育ちましたので、幼心に順徳天皇を身近に感じていました。ただ、もの心がつくまで、順徳天皇がなぜこの島に来て、この地で不帰の人となったのかは分かりませんでした。昨年、二〇二一年が承久の変、同時に順徳天皇が佐渡に御遷幸されて八百年という大きな節目の年でありました。その二、三年前から順徳天皇に関しては少しずつ意識しており、この機に纏めてみようか迷っていました。とそこで、私の文筆の師で外交評論家の加瀬英明先生に相談したところ、「思い切って書いたらどうだ。まとまった資料もないのなら、佐渡で生まれ育った君が心で書いてみればいい」と背中を押されました。この言葉を励みにまとめたのが、この『順徳天皇』という本です。
順徳天皇は、第八十四代天皇、在位期間十二年。建久八年(一一九七)にご誕生され仁治三年(一二四二)、御齢四十六で佐渡の地で崩御されました。二十五歳で承久の戦いに敗れ、北条義時により二十五歳の時に佐渡に流されます。人生の半分近くを佐渡で過ごしました。都に帰る望みが断たれたことを悟り自ら命を絶ちました。今上天皇で百二十六代目ですが、自ら命を絶った天皇は順徳天皇と第三十九代弘文天皇だけです。そういった意味でも非常に特殊な天皇であります。
父君は第八十二代後鳥羽天皇です。上皇として院政を敷き「治天の君」「文化の巨人」と称され、『新古今和歌集』を勅撰編纂するほど文武に長けた有能な帝王でした。第八十三代土御門天皇は二つ上の異母兄です。母君は藤原重子、のちの修明門院、藤原家の中級貴族の女性です。後鳥羽上皇には九条任子という年上の皇后がいましたが、年下の聡明かつ美貌である重子を寵愛しました。順徳天皇の皇后は九条立子、のちの東一条院、摂政九条良経の長女で、名門五摂家の一角、九条家から皇后を迎え入れています。御二方の間の皇子は、承久の変の直前、四歳で第八十五代仲恭天皇として即位しました。順徳天皇の諱(いみな)は守成、のちに承久の変で敗れ佐渡に流されたことから佐渡院とも称されます。『紫禁和歌草』や『順徳院御百首』、現在の皇室典範の元になっている『禁秘抄』、歌学書の名著『八雲御抄』などの著作がございます。順徳天皇は容貌も端麗で才能豊かな賢帝でした。
さて、北一輝についてですが、明治十六年(一八八三)、佐渡の両津という町で生まれ、二・二六事件の翌年、昭和十二年(一九三七)、事件に連座し銃殺刑で死去。享年五十四歳でした。「国家社会主義者」「右翼の源流」というようなレッテルを貼られています。また、政治学者の丸山真男は「日本ファシズムの教祖」と称し、田中惣五郎などの影響もありますが、全体主義、ファシスト運動の理論的指導者として定着していきました。中国革命同盟会に加わり、国民党の中心的な人物でもあった盟友の宋教仁と結んで辛亥革命に身を投じました。
北の主な著作は三冊あって、二十三歳の時に書いた処女作『国体論及び純正社会主義』。「国体論」と「純正社会主義」は矛盾しているように思えます。しかし、北の佐渡時代は尊皇思想家でもありました。また、同時代の佐渡は自由民権運動が盛んでした。若き北は、独学で二千頁にも及ぶこの著作を世に出しましたが、三日後に発禁になった。しかし、そのことによって北の名が世に知られるようになりました。辛亥革命に参加した時の体験録とでもいうべき雄編『支那革命外史』がありますが、最初は日蓮上人の『立正安国論』を捩って、「大正安国論」という書名にしようと思っていました。そして、二・二六事件の青年将校たちのバイブルと言われ、思想的影響を与えたとされる『日本改造法案大綱』があります。
②順徳天皇と承久の変
一般的には承久の乱と言いますが、朝廷側が仕掛けたことでもあるので、私はあえて「承久の変」と呼んでいます。承久の変は承久三年(一二二一)に勃発しました。後鳥羽上皇の朝廷側対執権北条義時の鎌倉幕府側の戦いとして歴史的に捉えられています。そこには順徳天皇の「朝儀復権」の執念がありました。後鳥羽上皇が主として変を仕掛けたと歴史的には認識されています。しかし、本当にそうなのか。現在、私は『小説 順徳天皇物語』を書いているのですが、その中では「順徳天皇が北条義時を殲滅せよと、後鳥羽上皇にけしかける」という場があります。
二十歳の時に詠じた「百敷や古き軒端の忍にも なほ余りある昔なりけり」このうたは、歌聖藤原定家が編纂した『小倉百人一首』の最後、百番目に置かれています。この歌集の最後は後鳥羽院が飾ってもいいし、定家自身でもいいのに、なぜ順徳院なのか。八百年前の当時、順徳院は若いけれども誰もが認める秀でた歌人だったのです。だから順徳院が掉尾を飾ることになりました。この和歌の内容は「宮廷はしのぶ草が生えるくらいに廃れてしまった、宮廷が栄えていた昔が懐かしい」。これが朝儀復権のための順徳天皇の念(おもい)でした。私は後鳥羽上皇よりも積極的に鎌倉幕府に対峙したのは順徳天皇だったと確信をしています。
承久の変は、幕府側、つまり北条の勝利でした。後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳上皇を佐渡へ、土御門上皇は、何も関わらなかったのでお咎めなしでしたが、忍びないということで、自ら申し出て土佐に流されました。その後、北条はもっと都に近い阿波に移し、御所まで造営し手厚くもてなしました。北条は土御門上皇を御し易いと考え、政治利用しようと考えたと思います。
本来なら変の首謀者であれば、後鳥羽上皇を最も遠い佐渡に配流してもいいはずです。今の感覚で言えば、京都から佐渡へ行くというのは、船で日本からハワイへ行く感覚です。京都から隠岐は、佐渡に比べれば近い。なぜ北条は順徳上皇を佐渡へ流したのか。それは、順徳上皇はまだ二十五歳と若く、北条はその能力を知っており、恐れたからです。
北条義時は、天皇家を抹殺しませんでした。海外では断罪、処刑は通例です。義時は、天皇家に代わって日の本の王になろうと思えばなれた。しかし、それができなかったのは何故か。日本は外国とは事情が違う。その事情とは、天皇は日本国の祭主で、霊威あるものである。それを抹殺するということは、日本という国の根幹を覆すことになることを、義時はよく分かっていた。だから三上皇を遠流にとどめ、朝廷を存続させ、その朝廷を操ることによって日本を治めていこうと考えたわけです。「武士の世」の登場です。
承久の変は、公武の力関係が逆転し、武家政権が鎌倉、室町、戦国、江戸へと継承され幕府主導の政治体制が明治維新までおよそ六百五十年続きます。山本七平は、承久の変を日本史上最大の事件とすら言ってます。
③北一輝と二・二六事件
昭和十一年、一九三六年に二・二六事件が起きました。陸軍の皇道派青年将校たちによるクーデター未遂事件ですが、三日後には鎮圧されました。彼らは「昭和維新」「尊皇討奸」をスローガンに掲げました。この「尊皇討奸」とは、天皇を中心として、天皇の周りの奸族を叩いて、もう一度、維新を起こそうということです。そのバックボーンにあったのが、北一輝の『日本改造法案大綱』と言われています。帝国憲法第一条は、「天皇の国民」と定義されています。ところが、北の改造法案第一条は、「国民の天皇」と定義しています。この「天皇の国民」「国民の天皇」をめぐって、学者や評論家が様々な論争を繰り広げました。ここで、「国民」を「国家」に置き換えてみると、少しは分かりやすくなるかもしれません。
北は、「天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速ヤカニ国家改造ノ根基ヲ全ウセザルベカラズ」と言っていて、あくまでも天皇中心の改革をしなければならない、天皇が中心でなければダメだということを強調しています。決起将校たちが玉(ぎょく)を獲らなければ昭和維新は成就しないことを、北は嫌というほど分かっていた。だから、それができないと分かった時点で諦めました。事件は鎮圧され、以後、シビリアンコントロールが効かなくり軍部の政治への発言権が増して戦争に向かっていきました。将校たちの中には、自ら命を絶った者もいました。多くは逮捕、処刑されました。北は軍事法廷の中で民間人であるにもかかわらず裁かれて銃殺刑にされました。
④母なるもの、父なるもの
順徳天皇にとっての「母なるもの」とは何か。私たちはみな母の胎内から生まれましたから、母国、母船、母なる大地という言葉があるように、母親は大きな存在です。靖国神社にある特攻隊員たちの遺書などを見ますと、「お母様、お父様」と両親宛の手紙でも、母親が先に出てきているものが多い。
順徳天皇の母親は藤原重子で後鳥羽上皇の寵愛を受けていた方です。重子は、平氏の血を引いています。その重子の母は平教子で、教子の父親は平教盛、清盛の異母弟です。順徳天皇は幼い頃、お祖母様である平教子から寝ものがたりに「源平の戦い」を繰り返し聞かされました。壇ノ浦で入水し、義経によって葬られた安徳天皇は、順徳天皇にとっては叔父様に当たります。こういった話をずっと聞かされましたから、幼心に「反源氏、反鎌倉」の気持ちが芽生えた。成長するにつれ、世の中は、朝廷がだんだん寂れていき武士が力を持ってきました。これが順徳天皇にとって、承久の変につながっていく要因ではなかったかと思います。
では、「父なるもの」とは何か。順徳天皇の父親は後鳥羽上皇で、文武に長けた帝王であることは先にもお話しいたしましたが、実はコンプレックスがエネルギーになっていました。お兄様である安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦に沈みました。宝剣だけが見つからなかった。その三種の神器のひとつ、宝剣がない中で即位したということで、自分は欠けている帝であるというコンプレックスがあったようです。しかし、それがバネになって和歌、芸能、蹴鞠、水練、鍛刀(たんとう)など、様々なものを習得していきました。皇室の菊の御紋は後鳥羽上皇がデザインしたものです。後鳥羽上皇は多くの皇子を儲けましたが、その中でも順徳天皇を最も慈しみ、自らの後継者として期待をかけていました。順徳天皇の在位中は後鳥羽上皇が院政を敷いていましたから順徳天皇は学術、和歌などアカデミックな面でその才能を発揮することができました。
一方の北一輝にとっての「母なるもの」とは何か。母リクの実家は佐渡の旧新穂村で、日蓮上人がいた根本寺がある村で、宗派は日蓮宗でした。リクは聡明で、佐渡の歴史にも精通していた教養人でした。母が語る順徳天皇や日蓮上人の姿は、北にとって魂の揺籃(ゆりかご)でした。北一輝に関する書物は世に数多出ており、私は大体のものには目を通していますが、順徳天皇との関係について、ほとんど触れられていない。しかし、北一輝は順徳天皇のことを意識していました。母リクは北が幼い頃、真野御陵や真野宮、皇子女の御墓によく連れて行っています。そうして、順徳天皇や日蓮上人の知識が醸成されていきました。紆余曲折を経て、中国大陸にわたり辛亥革命に身を投ずる。『日本改造法案大綱』を著す。この本が日本を揺るがす未曽有の大事件、二・二六事件の思想的バックボーンとなり、事件に連座し銃殺刑に処される。佐渡にいた母リクは北が銃殺刑で亡くなった知らせを受けた時、一言も発せず、ただ頷いただけだそうです。「母なるもの」とは、そのような存在でした。
順徳天皇の母、重子もそうでした。順徳天皇が佐渡に向け都を出立する時、家族との悲しみの別れがありました。重子はその様子をじっと見守り、順徳天皇の皇子女たちを晩年まで育てあげていきます。順徳天皇が佐渡で自ら命を絶った知らせを受けた時も、決して取り乱すことなく静かに受け入れたそうです。
北一輝の「父なるもの」とは何か。父慶太郎は酒造業を営み、初代旧両津町長を務めた名士でした。慶太郎は、漢気(おとこぎ)があって、正義感が強く、事業欲が旺盛で、政治活動に奔走して家にいない存在でした。北にとっての父とは、荒々しさであり、騒々しさであり、活気でありました。その父親は従兄弟と越佐海峡間の汽船会社を興します。しかし、競合会社との競争に負け、一気に家が傾いていきました。慶太郎は北が二十一歳の時に亡くなります。
⑤歌人としての順徳天皇と北一輝
順徳天皇は秀でた歌人として認められているのは明らかです。お花さんという在島の女性との間に忠子女王と成島王(千歳宮)を儲けられたと私は思っていますが、そのお花さんとの忍び恋を詠んだであろう「なほふかきおくとはきけとあふ事の 忍ふにかきる恋のみちかな」という和歌が佐渡で詠じた『順徳院御百首』に見られます。
順徳天皇の辞世は「思いきや雲の上をば余所に見て真野の入り江に朽ち果てむとは」ですが、自裁を決意した時、現在の真野御陵がある丘陵から真野湾を一望するわけですが、この海の向こうにはお父様がいらっしゃった隠岐の島や京の都がある。この海を眺めて詠んだ和歌です。まさか自分がこの地で自ら命を絶とうなどとは想像もしなかった、というような内容です。
一方、北一輝ですが、神童といわれ、十代の頃から『明星』に投稿していました。松本健一が言う、ロマンチシストな詩人でした。北は、強面の黒幕としてのイメージが強いと思いますが、かつて、恋人と別れる時にこんな繊細な哀傷歌を詠んでいます。「みえずみ江ずなる人かげをみおくりて 逢はれん思あわれぬ思」。銃殺刑に処される前の辞世の句は、「若殿に兜とられて敗けいくさ」です。
順徳天皇も北一輝も切なく儚い恋心を詠う妙手でした。
⑥悲劇的なるもの
順徳天皇も北一輝も波乱万丈で悲劇的な人生を送りました。私たちがギリシャ悲劇であれシェイクスピア悲劇であれ古今東西、共感を覚えるのは、私たちの心の中には大なり小なり悲劇性が宿っていて悲劇を観ることで覚醒し共感するからでしょう。
順徳天皇にとって「悲劇的なるもの」とは何か。北条義時は、順徳天皇を最も遠く過酷な場所である佐渡に配流しました。才能ある人間は才能ある人間をよく理解しています。それゆえ、義時は順徳天皇の才能を恐れていたのです。
義時の長男である第三代執権北条泰時も同様でした。順徳天皇の皇子忠成王が即位する可能性がありました。忠成王が天皇になれば、宣旨を下し父である順徳天皇を都に戻すことは可能です。さすがにたかだか執権ごときがこれを拒絶することはできません。泰時もまた順徳天皇を恐れていました。だから、忠成王の即位を断固反対しました。幕府の執権が天皇を決める。前代未聞のことです。結局、土御門天皇の皇子が即位することになりました。
このことにより、順徳天皇は環京の望みは断たれたと悟り、「存命無益」と自裁を決意されました。まだ、男盛の四十六でした。遺言がございました。順徳天皇のかつての蔵人(くらんど)だった平経高の『平戸記』という日記には、「ご遺言は聞くも恐ろしいことである」と書かれているだけで、その内容は書かれていません。つまり、その内容は記録に残せないほど、恐ろしく凄まじいものであったということです。北条に対してなのか幕府に対してなのか判りませんが、相当の無念さがあったことは間違いありません。私は、順徳天皇の御神霊は未だ佐渡の地を彷徨(さまよ)っていると思えてなりません。
北一輝にとっての「悲劇的なるもの」とは何か。神童と言われ、旧制佐渡中学校を飛び級で進級するくらいの秀才でしたが、眼病で退学をする。家業が傾き、進学を断念し、なおかつ苦い失恋も味わう。北は楽々と、帝大に進学できるくらいの学力は十分ありました。辛亥革命に参加しますが、そこでも挫折を味わい、日本に帰ってきます。「日本の魂のどん底から覆して日本自らの革命に当ろう」と『日本改造法案大綱』を引っ提げて事に当ろうとした。が、またも二・二六事件に連座し銃殺刑によって亡くなってしまいます。
順徳天皇も北一輝も、ともにその念(おもい)は叶いませんでした。承久の変も二・二六事件もある意味で共通のテーマのひとつは、広義の天皇制であったと思います。承久の変もある意味では革命であり、順徳天皇は革命家でもあったと私は思っています。もう一度、天皇を中心とした国づくりをしようと順徳天皇は信念を持って承久の変を戦ったのだと思います。北一輝も同じことで、天皇を中心として昭和維新をやる。玉を手中に収めなければ維新は成就しない、というふうに考えていたのだと思います。
ニーチェが『悲劇の誕生』の中で「悲劇とは巨大な宿命に人間の運命が圧倒され、押し潰されていく身体の痛みや悲しみを如実に描いた物語である」と言っています。
私には、北一輝の辛亥革命、並びに二・二六事件における「革命者」としての敗北の悲劇が、順徳天皇の承久の変における敗北の悲劇と重なって映ります。
⑦佐渡の幻翳
「嗚呼、暴ナル哉北条氏。嗚呼、逆ナル哉北条氏。北条以前ニ北条ナク、北条以後ニ北条ナシ」。これは北一輝が旧制佐渡中学二年の十六歳の時に書いた作文です。彦成王という順徳天皇の皇子がお父様に会いに佐渡に渡り、おそらく佐渡で亡くなっていますが、その陵墓を訪れた時に書いた文の冒頭の一節です。十六歳の北の頭の中は尊皇ですから、北条憎しなんです。
処女作『国体論及び純正社会主義』の中では、「吾人は今尚故郷なる順徳院の陵に到る毎に詩人の断腸を思うて涙流る」と記しています。順徳帝の御陵にお参りに行くたびに涙が流れますということを、二十三歳の北は書いているのです。
また、捕えられていた憲兵隊本部において「国家改造運動の経緯に就いて」問われると「私は佐渡に生まれまして、少年の当時、何回となく順徳帝の御陵や日野資朝の墓や阿新丸の事蹟などを見せられて参りまして、承久の時の悲劇が非常に深く少年の頭に刻み混まれました。帝の痛ましさと云ふ様な事、乱臣賊子の憎むべき事と云ふ様な事は単純な頭に刻み込まれて来ました」と答えています。
安岡正篤による碑文が佐渡の北の実家のそばの神社の境内にありまして「北一輝先生ハ明治ノ當地ガ産ンダ偉大ナ鬼才デアル。由来佐渡ハ国家ト信仰トノ為ニ戦ツタ幾多ノ革命的人物流謫ノ地デアルガ特ニ順徳天皇ト日蓮上人ノ英魂ガ先生ノ心霊ニ深甚ナ化ヲ及ボシタ感ガ深イ」と刻まれています。安岡正篤もまた若い時に北の教えを乞うた一人でした。
また、陸軍軍事法廷の吉田判士は北を見ると「北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と評しました。数多ある北一輝論の中で私が個人的に一番共感できるのが渡辺京二の『北一輝』ですが、この本の「佐渡」の章に、「この吉田判士の評語は、深く北の本質を云い当てている。『柔和にして品よく白皙』、私は佐渡の風土にまったくこれと同じ印象をもった」という一節が出てきます。私にとっての「柔和にして品よく白皙」とは、まさに順徳天皇そのものです。このような北一輝の順徳天皇への思いを語った「北一輝論」がなかなか見受けられない。私はここに北一輝の思想の原点があると思っています。
順徳天皇、幕府との戦いに敗れ、都から遥か離れた佐渡に流され星霜二十二年。
文武に長けた若き帝王は島の山海万里に遊び、花鳥風月を愛で、島人とふれあい、溢れる才能を書に残し、数多の和歌を詠い、そして愛(かな)しい恋もした。しかし、その心は充たされず都を思い続け、絶望の果てに自ら命を絶った。
佐渡の四季折々の花鳥風月、順徳院の詠草は美しい。
その愛(かな)しい美しさは、同時に哀しくもある。
ご清聴ありがとうございました。(了)
【プロフィール】
山田 詩乃武(やまだ・しのぶ)
1959年、新潟県佐渡市真野新町生まれ。佐渡高校卒。青山学院大学経営学部経営学科中退。青山学院大学在学中、清水禮子助教授(当時)に師事し、スピノザ哲学を学ぶ。新潟県立羽茂高校講師、学習塾経営を経て、現在複数の会社、団体の役員。佐渡の郷土史、主に人物に焦点を当てた研究を続け、『佐渡郷土文化』誌などに寄稿。新潟県佐渡市および東京都在住。