「歴史の終わり」が終わらない
民主主義が人類にとっての最適解である、という考え方は今や国際社会ではさも明白の事実のように扱われている。現に西側諸国では第二次世界大戦において自由・平等・民主主義を象徴する連合国が枢軸国のファシズム・権威主義・人種主義を打ち破り、さらにはソビエト連邦の崩壊により共産主義・全体主義は過去の遺物となったことによって民主主義は完全な勝利を収めた、という史観が一般的で、そこからは民主主義が世界の隅々まで広がることによって、恒久的な自由と平和が保障される、という筋書きへと繋がっていく。
これがフランシス・フクヤマが言うところの「歴史の終わり」であり、人類の歴史を自由への渇望として眺めた時、民主主義はどのような文化・民族・宗教にも適合できる、人類の本質を的確に捉えた最も普遍的なイデオロギーであり政治体系の最終形態である、という前提に基づいた終末論である。
しかし、「歴史の終わり」が宣言されてから約三十年、歴史は終わるどころか、世界は上記の歴史を逆行するかのように再び波乱の時代を迎えている。権威主義や全体主義的な国家は再び台頭し、民主主義を謳う国家もそれらに倣ってどんどんと非民主的な形へと変貌している。更には主権者の政治への不参加、投票制度への不信、民主的プロセスでは修復しきれない国民同士の対立など、民主主義の根底を成す条件が世界中で崩れつつある。
この原因として、新自由主義がもたらした民主主義では是正しきれない格差、自由経済と権威主義を両立させてしまった中国のような国家の台頭、民主主義を軽んじる腐敗した為政者の跋扈などなど様々な理由が挙げられるが、どれも本質的な原因ではない。民主主義が今置かれている状況を正しく理解するには、上述の「絶対普遍的価値観としての民主主義」を国の支柱にするという考え方が根本的に誤ったものであることを理解しなければならない。
つまるところ、民主主義は手段であって目的ではない。道徳的属性を持たない、すなわち善や真理の追求を内包していないイデオロギーである民主主義を絶対視することは意味の空洞化をもたらし、最終的には民主制を崩壊に導いてしまうのである。かつて覇権を取ったアメリカン・デモクラシーが現代において他国はもちろん、アメリカ本国に置いても行き詰まりを見せる原因はまさにそこにある。
米国の機能不全
さて、なぜかつての米国においては民主主義が機能し、現在は機能不全に陥っているか。それは民主主義の機能は、同一の外観・価値観・目的論をもっていることが大前提となっているためである。米国の憲法を少しでも知るものに取っては、この主張は不自然に聞こえるだろう。なぜならアメリカ合衆国憲法修正条項の第一条は言論の自由であり、その中には「国教の禁止」や「信教の自由」も盛り込まれている。
しかし、当時の時代背景を考えるに、ここで言われていた「信教の自由」はせいぜいプロテスタントかカトリックか英国国教会かの違いであり、あくまでも同一の神と救世主を崇めるなんらかのクリスチャンであることを大前提としていた。現代のようにイスラム教のようなキリスト教と教義の大きく異なる宗教の信者、さらには一切の形而上学を認めない無神論者が有権者として存在しうることは間違いなく考慮されていなかった。
また、かつてのアメリカ合衆国は圧倒的大多数がアングロサクソンやゲルマン民族などをはじめとする西欧系の白人であった。人種的・民族的統一による連帯感というのもまた、宗教上の繋がりと同じくらい強いものであり、この二つの強靭な支柱をもって初めて国民は有権者として国の行く末を互いに論じられたのである。
根本的な価値観が違い、外観もまるで違う人々が、自らを一つの共同体として認識することは不可能である。これらの共同体を失ってしまった現代のアメリカは、あたかも西を目指したい者と東を目指したい者で分かれてしまった船であり、多数決でどちらかを選ぼうにも、選ばれなかった側が多数派に憎しみや敵意を覚え、常に互いの足を引っ張る状態に陥ってしまう。船旅にしろ国政にしろ、目指す方法や段取りは違えど、目的地は同じでなければ話にならない。「絶対普遍的価値観としての民主主義」とは普遍的であるが故にその目的地、いわば建設的なビジョンを持っておらず、国家を支えうる思想たりえない。共同体を持たない原子化した個人は、志を同じくする国民と共に団結して民意を発揮する力を持ち得ず、国家権力にすがる他なく、故に民主主義以外の支柱を持たない国は必然的に私利私欲に塗れたエリートによる寡頭制の金権政治へと姿を変え、民主主義を破壊してしまうのである。
最後に、これは民主主義自体を頭ごなしに否定するものではない。上述した通り、かつてのアメリカのように人種・思想的に比較的統一されていた国においては、民主主義は個々の人間の意思を最大限まで引き出し、とても全体主義や権威主義では敵わない力を発揮するからである。故に、日本の民主主義は、あくまでも日本民族による、万世一系の天皇を戴いた御国の生成発展のための民主主義でなくてはならない。価値相対主義や個人主義に惑わされることなく国民一人一人が自発的にこの決意を胸に刻み、行動することによって手段としての民主主義は初めてその真価を発揮するであろう。