はじめに

 最近TVの報道番組ではウクライナ問題の時間配分が減って、エリザベス女王逝去、統一教会問題、安倍総理国葬問題、コロナの第七波、台湾問題、等にとって代わられた感がある。TV視聴者もウクライナ問題に飽きてきていて視聴率が稼ぎにくくなってきたということだろう。

 TVはこれまでウクライナ東部での戦況報告とウクライナ市民へのインタビューで気の毒なウクライナ国民と残虐なロシア軍を際立たせ、英雄ゼレンスキーと悪人プーチンとの対立構図を際立たせる番組を構成してきた。しかし、ウクライナ紛争がなぜ起きたのか本質を掘り下げる報道は殆どない。また人道論の視点に絞り込んだ報道姿勢から、ロシア人が残虐非道な民族であるかのような印象を定着させてしまった感がある。それどころかそうした安易な報道の結果、ロシアとの交流を政治、経済、学術、文化あらゆる分野で断絶に向かわせてしまった。それによって今後両国の関係の再構築に要する時間と労力を考えると、日本が失ったものはあまりに大きい。ロシアという国を必要以上に誹謗して日本が得することは何もない。

ロシアにとっての最重要課題=安全保障ウクライナ紛争の背景

 ウクライナ問題を論じるときに忘れてはならないことがある。ロシアはNATOの東方拡大阻止という極めて重要な安全保障上の課題を抱えていたことだ。それは国家の最重要課題である。プーチン大統領は米国およびEUに対して繰り返しNATOの東方拡大を停止するように懇請をしてきた。

 ソ連崩壊に伴ってワルシャワ条約機構は解散し、ロシアは普通の国として再出発を始めた。しかし嘗てのソ連への対抗組織であったNATOは継続して存在しただけでなく、東方への拡大を続けてきた。一九九九年以降だけでもポーランド、チェコ、ハンガリーやバルト三国など、嘗ての同盟国をNATOに引き込む速度を上げてきた。プーチン大統領は二〇〇七年に行われたミュンヘン安全保障会議で各国首脳に対して「NATOは一体誰に対抗するために拡張を続けけるのか?」 「米国はあらゆる意味で国境を踏み越えて東に進み危険きわまりない」と東方拡大の停止を訴えている。さらに一九八九年のゴルバチョフ書記長とベーカー国務長官の約束を想起してこれ以上のNATOの東進をやめるように訴えてきた。しかし米国は無視して露骨な反露政策と仮想敵国扱いを続けてきた。

 そうした中でNATOへのウクライナの加盟はロシアの許容の限界を超える。しかし欧米は意図的にウクライナをNATO加盟に勧誘し続けてきた。ロシアを脅威に陥れ、紛争に引き込む意図的な準備であった。

 そして首尾よく二月二四日に戦闘が始まると、米国は予定通り積極的にウクライナに武器の供与を開始した。その後も戦争を長引かせるためにウクライナに逐次的に武器供与を継続してきた。ロシアの経済を疲弊させるためである。表向きは正義のため、ウクライナの独立を守るためとしているが、本質は米国による米国のための戦争である。ウクライナの領土保全、自由と正義のためという美しい名目で際限なく武器を送り込んでいるが、実はウクライナを犠牲にしてロシアを破壊することが目的であることは明らかである。ウクライナは犠牲の代償として経済支援を得る構図だ。しかしそれはアングロサクソンによるスラブへの戦争に他ならない。

ロシアについての悪意ある言説

 戦争は二月二四日に始まったのではない。二〇一四年に始まっていた。ウクライナ東部におけるネオナチによるロシア系住民の虐殺が続く中で、プーチン大統領が被害を受け続ける住民の救出のためにウクライナ東部地域の制圧に決意せざるを得なかった。ロシアには今回の特別軍事作戦が遅すぎたと考えているロシア国民は多い。

 しかし日本では見当違いの報道がなされている。ロシアはあくなき領土拡張の欲望でまたしても他国を侵略した。ロシアは権威主義国であり民主主義が無いため、民衆の意見は無視されている。殆どの国民は今回の侵攻に反対しているが、プーチン大統領やKGBが恐ろしいために本音を言えない。特派員のインタビューでは反プーチンの声だけを選択的に拾って、それらがロシア国民の大半の声であるかの如く伝えている。不都合な意見は無視する。しかしこれらは一連の反露プロパガンダにすぎない。

 九月一一日に実施された八二の連邦構成主体を対象に行われた統一選地方選挙では、各地で政権与党「統一ロシア」が圧倒的多数で勝利した。今回の選挙はプーチン大統領の信任の国民投票の性質も帯びていたが、結果は圧倒的プーチン支持と出た。西側ではプーチン大統領が近々政権から排除されるかのごとき報道をしているが、単なる希望的観測にすぎない。因みに日本のTVではこの結果について沈黙したままである。ここでも不都合な真実は報道しない姿勢だ。 

IMFによるウクライナへの金融支援

 ロシア経済がダメージを受けているという新聞記事を頻繁に目にするがウクライナ経済についての報道は極めて稀である。実はウクライナ経済はずっと以前から破綻していた。IMFはマイダン騒動が一段落した二〇一五年三月にウクライナ政府の要請を受けて一七五億ドルの財政支援を行う約束をした。そのうちまず五〇億ドルの供与を実施し、残額はウクライナ政府が約束した腐敗対策を含む経済改革の実現を条件として三度に分割して供与されることになっていた。しかし第二トランシェまではどうにか支払われたがそれが最後となった。

 支払いの条件の履行状況を調査するためにウクライナを訪れたIMF調査団はあまりにひどい汚職や腐敗の現状を知ると呆れて帰国してしまった。その後も紆余曲折を経て複数の支援供与を約束して合計四〇〇億ドルもの手厚い支援を続けた。但しその中にはウクライナ国債の未償還分の減免措置が含まれているため、全額を使用できたわけではない。このようにウクライナはずっと以前から経済破綻国家になっていた。換言すればロシアの侵攻によって西側各国からの支援が救命維持装置になっているが、紛争が終われば地獄が待っている。独力では経済が維持できないからだ。

ロシアとのガス抜きトラブル

 一九九一年独立国になったウクライナはロシアとは財布を分けた。その結果、天然ガス代金をロシアに払う義務が生じた。しかし支払いは停滞して二〇一四年時点でガス代金の累積滞納額は四四・五億ドルという巨額になっていた。実はロシアは兄弟国ウクライナには欧州向けよりもはるかに安い優遇価格でガスを提供していたのである。しかしその金額でさえ払えなくなると、今度は欧米にすがり付いて西側陣営に帰属したいと言い出した。なりふり構わず助けて欲しいという泣きつきである。

 実はウクライナはロシアから自国を通る欧州向けのパイプラインの通過料金も受け取っていた。計算上はその収入によって支払うガス代金は大幅に軽減されていた。しかし実際には滞納は増える一方であった。実はウクライナのオリガルヒー(政商)が巨額の代金を吸い取っていて、政治家もその分け前を得ていた背景があった。本来ロシアへ支払われるべきガス代金はウクライナのハゲタカたちの個人口座に消えてしまっていたのだ。ロシアがそうした状況を看過することができず、優遇料金を廃止して欧州と同じ正規料金の支払いを求めたのは当然の措置であった。

 ウクライナはその後も自国の産業を維持するためにパイプラインからガスの抜き取りを続けるしかなかった。ロシアから見ればウクライナは代金の踏み倒しだけでなく、白昼の泥棒である。また欧州の顧客へのガス供給契約を履行するために、ウクライナを迂回するガスパイプライン(サウスストリーム 二〇一九年に完成)を建設したのは当然の成り行きであった。

欧米の支援

 そもそもロシアとウクライナの経済規模を比較しても大人と子供ほどの違いがある。ウクライナはGDPベース一、九一〇億ドル、で世界五四位、対するロシアは一兆七、七五五億ドル、一一位だ(二〇二一年)。大人と子供ほどの違いである。ウクライナのロシアへの自力での挑戦は蟷螂之斧であることがわかる。同じ条件で戦えば負けることは自明の理である。しかしゼレンスキー大統領は異常なまでに強気だ。欧米による莫大な金額の支援があるためだ。

 ウクライナを支援するバイデン政権は支援の逐次投入を続けてきた。しかしロシアとの戦いでは期待した成果は得られてこなかった。バイデン政権は毎回議会承認を得るのは面倒なので、米国議会にレンドリース法を可決させて総額で約四〇〇億ドルの支援枠を確保した。ウクライナの国家歳出予算規模が約四五〇億ドル(二〇二一年)であることを見ればその大きさがわかる。そのうち八月末現在で一二九億ドルの武器が投与されている。因みに米国による支援額は西側同盟国によるウクライナ支援総額の約五割を占めている。(日本は約〇・七% 七月八日現在)

 しかし米国内ではこの巨額の国家予算投入に疑問が出始めている。EU諸国でも、ゼレンスキーの要求がましい姿勢には強い反発が出ている。ウクライナは現在のところ欧米によって辛うじて生かされているがいつまで支援が続くかは不透明である。支援がなくなれば戦争は終わるが同時にウクライナとゼレンスキー大統領の運命は暗い。だから必死に戦争を続けるしかない。

 ウクライナのレズニコフ国防大臣は『ウクライナは西側の兵器企業にとって製品の質を試せる絶好の実験場だ』という驚くべき理由で西側諸国に軍装備品の追加供与を求めた。国民の犠牲を顧みず、自国領土を兵器の実験場として使ってくださいとアピールする国防大臣はまともではない。西側は人道上ロシアを許さないというが、この国防大臣の発言そのものが反人道であると気がつくべきである。しかし実際のところ米国が自国が開発した兵器の実験場としてウクライナを利用していることは紛れもない事実である。(続く)

【月刊レコンキスタ令和四年一〇月号掲載】