「円卓会議」が示してきた外交の可能性
昨年八月四日広島の地で「軍備管理と核軍縮の現状と見通し」をテーマとする「円卓会議」が開催されたことは月間レコンキスタ五二〇号で詳細に報じられているが、在日ロシア連邦大使館と日本の一愛国者団体である一水会との共同開催に驚く人もいたに違いない。「円卓会議」というのは、そもそも立場の異なるもの同士が席次にこだわらず懇談する会議である。ロシアもソ連時代から円卓会議という名称を好んでよく使ってきたようで、たとえば一九七九年から八八年にかけて開催されていた日本対外文化協会(対文協)による「日ソ円卓会議」がその一つである。対文協は、東海大学の創立者で、戦前、逓信省の技術官僚から、戦後、逓信省総裁となり、その後、社会党右派から衆議院議員に当選し六期務めた松前重義を代表として設立された団体で、ソ連、東欧社会主義諸国との学術・文化交流を推進する役割を果たした。
一九五六年の日ソ共同宣言以降、全く進展のなかった北方領土返還交渉のきっかけを作ったのは「日ソ専門家会議」であった。それは、日本側「安全保障問題研究会」(略称「安保研」)と、そのカウンターパートとしてソ連の「世界経済国際関係研究所」(略称「IMEMO」)によって七三年に始まり、以後定期的に開催された。この会議の発足にIMEMOの副所長として携わり、その後も主要なメンバーとして関わったエヴゲニー・プリマコフは、後にロシア連邦議会議長や、外相、首相等を歴任することになった大物であるが、彼の回想録に、彼が「円卓会議」と呼ぶその会議の様子を伝えるくだりがある。
「『円卓会議』は年一回行われた。発足当初は、耳の不自由な人同士の会話に似ていた。ソ連、日本とも『両国関係の発展がいかに重要か』について相手の主張と同じことを繰り返した。違う点は、日本側が『北方領土問題の解決なしには両国関係の発展はありえない』と主張したのに対し、ソ連側が日本側に負けない執拗さで『ソ日間に領土問題は存在しない』と反論したことだ。しかし、徐々に氷は解けた。会合を重ねるごとに双方の相手に対する敬意が深まっていった(「クレムリンの五〇〇〇日プリマコフ政治外交秘録」二〇〇二年)」と、この会議を通じて日ソ間の距離が縮まっていったことをプリマコフは感慨深く記している。
一方の日本側、安保研の組織者である末次一郎の回想にも、「話し合ってみると、先方の観方は誤解だらけだが、こちらもかなり誤解していることもある。基本的な立場は違っても、回を重ねるうちには互いに本音で語り合う場面も増えてくるのである。(「戦後への挑戦」一九八一年)」と、日ソ双方がその会議に真剣に向き合ってきたことが窺い知れる。
その「日ソ専門家会議」は、二〇〇四年までに二二回を数え、二〇〇五年からは「新しい日露関係・専門家対話」と名称を変えて最近まで毎年開催されてきたが、次第にその存在感は薄れた。この会議の日本側の中心人物で、「ミスター北方領土」と呼ばれた末次一郎が二〇〇一年に他界したことが、その最大の原因であろう。
一九九六年から二〇〇三年にかけて駐日ロシア大使を務めたアレクサンドル・パノフによれば、「七〇年代初めから〇一年この世を去るまで、末次は民間レベルでの日ロ関係をまとめる中心人物として活躍した。国際関係で如何なる危機的状況が生じようとも、ソ連・日本関係が、その後のロシア・日本関係がきびしい緊張を迎えようとも、「末次チャンネル」はつねに〝交信可能〟の状態にあり、信頼できる情報をやり取りすることが可能だった。そのおかげで、最終的にはロ日双方の指導部に相手国側の意向を伝えることができた。双方の意図を理解すること、緊張を解きほぐすこと、多くの問題解決方法を見出すこと、相互信頼の雰囲気醸成へ進むことを可能とした。(中略) 末次代表の死去は、ロ日関係にとって償うことができない損失である。そのことはすぐに実感として跳ね返ってきた(「雷のち晴れ 日露外交七年間の真実」二〇〇四年)」という。外交官でも、政府の人間でもない一民間人に過ぎない末次一郎という人物が、かつて日露関係のキーパーソンであったことは紛れもない事実である。
戦後処理に奔走した末次一郎の生涯
末次一郎は、大正一一(一九二二)年佐賀県に生まれ、平成一三(二〇〇一)年にこの世を去っている。実家の材木商を継ぐ予定で佐賀商業学校を卒業後、戦時に陸軍へ入り、現役兵を朝鮮大邱で過ごしたのち、豊橋第一予備士官学校入学、そこを卒業と同時に東部三三部隊配属という「謎の命令」を受けて赴いた先が、陸軍中野学校二俣分校であったという。秘密戦の基礎とゲリラ戦の教育訓練を受けたのち、福岡の西部軍管区司令部勤務を命じられ、九州における本土決戦に備えゲリラ戦の準備を進めていたところで終戦を迎えた。八月一五日以降も引き続き徹底抗戦を模索したものの断念、残務を処理し、遺書を認め、ひとり自決を試みるが果たせず、その後の人生を戦後処理に捧げることを誓ったという。
昭和二四年に日本健青会を創設し、引揚援護・促進・留守家族支援、B・C級戦犯受刑者の釈放要求、青少年健全育成、沖縄返還、北方領土返還運動等々、あらゆる戦後問題に挑戦し、その事績は枚挙に暇がない。一貫して在野に身を置き、生涯借家住まいし清貧を貫いたその人生は清々しい。
また、末次には、ひとつならざる二つ名があり、「ミスター北方領土」のほかにも、「最後の国士」、「沖縄返還の立役者」あるいは「歴代首相の指南役」など、いずれも誇張でなく、その名にふさわしい活躍を実際にしてきた人物だった。
私が、初めて末次一郎の謦咳に接する機会を得たのはバブル時代の一九八七年だったが、当時の末次事務所は永田町の衆院第二別館の裏あたりにあった一軒だけ時代に取り残されたかのように建つ古い木造家屋だった。そこには、中野学校二俣分校で同期だった小野田寛郎氏がルバング島で長年使っていたという鉄兜が無造作に置かれていて、私は無性に感激した覚えがある。小野田氏は日本帰国後の一時期その事務所の二階で起居していたという。
末次の烈しい気性について、それとなく聞いていたのだが、私は試すような気持で、「ソ連などと交渉し北方領土など返してもらわなくていい。ムードに流されやすい日本人が容共的になっても困るからだ」などと言ってみたところ、末次は怒りもしなかったが、それに直截的に答えることもなかった。にやりと微笑んだかと思うと、やおら「スエツグサン、スエツグサン」という詩のようなものを読みだした。その頃、息子と妻を相次いで亡くしたプリマコフを慰めるため、末次は般若心経を写経し贈っており、それは答礼の手紙だったようだ。勤皇家として名高い末次が容共を是とするはずもないが、体制を越えた人間同士の信頼関係というものが確かにこの世界に存在しうるということ、そのうえで、「北方領土は必ず取り返す」という確固たる信念は「言わずもがなだ」と、この若僧に言外に示したのだと思う。そのときのやり取りは私にとって些かほろ苦い記憶でもあるが、末次の姿勢はまさに「謀略は誠なり」という陸軍中野学校の校訓を体現するものであると感心した。
末次の葬儀委員長を務めた中曽根康弘元首相も後年語っている。
「末次君は四島一括返還という主張に微塵も揺るぎがない。議論だけならば永遠に平行線です。末次君はそんな状況だからこそ、ソ連側要人や学者との信頼関係の構築に努めたのです。」さらに、「末次君の人に対する評価軸は一定していました。自分の国を愛しているかどうか。たとえそれが、ソ連、ロシアの人間であっても、立場や考えが異なる人間であっても、愛国者同士ならばその一点で話が通じた(SAPIO 二〇一一・一〇・五)」というように、領土問題では一切の妥協を許さない末次だったが、交渉相手への敬意は決して忘れることはなかった。
トラックⅡ外交の先駆け
そうした末次の北方領土問題への取り組みは、沖縄返還運動での経験に基づいていた。その手法は、政府間交渉とは別に、日米両国の専門学者が顔を合わせ、沖縄返還のあり方について議論を重ねていくという、今日でいう「トラックⅡ外交」の先駆けであった。そして、その到達点として「核抜き、本土並み、一九七二年」という共通認識を生み出し、その後の流れを作り出すことに成功した。末次のチームは北方領土問題でもそうした手法を踏襲し、日ソ専門家会議を立ち上げるに至った。さらに、全国的な国民運動の盛り上がりが、沖縄の本土復帰の世論を後押しするのに不可欠であったことから、北方領土問題でも全国的な啓発活動を活発化させた。
末次の運動論は、そうした有識者による国際会議体の協議と国民運動とを、いわば車の両輪と捉え、彼の強い使命感が長い間これを牽引した。我が国にとって不幸なのは、末次亡き後、末次に代わる人物が現れていないことである。
「戦後レジーム脱却」を謳った安倍晋三が、末次一郎没後十年余を経て首相として再登板するや、プーチン大統領と精力的に会談を重ねた。一時は二島先行返還で、平和条約締結に向かうかのような首相周辺の空気をマスコミは伝えたが、結局、何も起こらなかった。その安倍までもが既に故人となってしまった。
かつて末次は「沖縄復帰への道(一九六八年)」において、「実現性のある建設的要求の必要」を説いた。国内における国民運動については、主として共産党勢力を意識し、反米、反安保、反政府といった「不純要素の排除」を訴えつつ、優柔不断な政府の鞭撻に努め、沖縄返還交渉を成功に導いた。だが、末次なき今日の日露交渉において、過去の経験が生かされているのかは甚だ疑問である。「戦略的友好関係の構築」を目指した安倍外交のプランは「実現性のある建設的要求」にも見えたが、結局いつものように、米国に対する忖度、過剰な配慮が「不純要素」として日本政府の決意を鈍らせ、ロシア側の不信感を払拭するまでに至らなかったのではなかったか、もとより対米自立の覚悟なしに独自外交などできようもない。
唐突だが、北朝鮮との国交正常化問題も〇二年の日朝平壌宣言以来進展を見ていない。日本側が最重要課題と位置付ける「拉致問題」が暗礁に乗り上げたままなのは、北方領土問題に酷似している。この拉致問題解決の国民運動を牽引してきた中心的組織は「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(略称:救う会)」であるが、この事務局の中核メンバーこそ、末次一郎の側に仕え、誰よりもその薫陶を受けてきた人々である。拉致問題は〇〇年代に大きな国民的関心を巻き起こしたが、五人の拉致被害者とその家族が帰国を果たしてからは具体的成果がないまま二〇年が経過した。「対話」と「圧力」の両様を対北外交ポリシーとして掲げたはずの日本政府は、圧力一辺倒の短絡で単調な対応に終始してきた。「救う会」にいたっては、拉致問題解決が対北交渉の最優先という原則を重視するあまり、いつの間にか反北朝鮮圧力団体のようになってしまった。末次一郎の弟子たちは、師が実践したように、自ら北朝鮮との対話のチャンネルを切り開くことはできないのだろうか。
話をロシアに戻す。現在ウクライナ問題への日本の対処がロシアに対し非友好的であるとして、あらゆる交渉が停止された。九一年に合意した「ビザなし交流」、九九年に合意した元島民やその家族がかつて住んでいた場所などを訪れる「自由訪問」も停止し、およそ半世紀にわたって積み上げてきたものが瓦解しつつある。
不断の対話を続けることが未来への希望
力による一方的な現状変更は断じて認められないと、徒にロシアを非難するばかりでは、先人たちの努力も台無しになりかねない。そこで末次の果たした役割の一端を、今後一水会が担う可能性に期待してみたい。
かつて、ジリノフスキー率いるロシア自由民主党が連邦国家院(下院)の第一党となり、エリツィン大統領の対抗者として台頭してきた時などには、末次も警戒感を示していたが、それは日本の関係者の誰もロシア自由民主党との直接のパイプを持っていなかったからである。
ジリノフスキーは当初、日本に対する強硬な意見を表明していたが、のちに日本に対する認識を改めていき、友好的な言辞もみえるようになった。それというのも一水会の木村三浩代表との間で対話を重ね、肝胆相照らす仲を築いていったことによる。ジリノフスキーは本年四月に惜しくも急逝したが、木村代表との交流はわれらの記憶にしっかりと刻み付けられるべきである。
また、ウクライナ問題で、欧米やそれに追従する日本政府がロシアを非難し、制裁を重ねる中にあっても、なお不断の対話を続けることが未来への一縷の希望である。
これは対北朝鮮外交でも全く同じことがいえよう。ウクライナ問題の帰趨がどうなろうと、北朝鮮による示威行為が繰り返されようとも、ロシアも北朝鮮も、わが国との間に解決されねばならない問題を抱える隣国なのだから。
戦後処理に生涯を捧げた末次一郎の軌跡から学ぶべき教訓は今も数多あると思う。その第一に挙げられるべきことは、「謀略は誠なり、いわんや外交をや」である。
一水会の関わる国際的な「円卓会議」が、新たな「トラックⅡ外交」の可能性を切り拓くことを切望してやまない。(了)