米国なすがままで衰退へ

 日本の衰退が、いよいよ現実のものとなって表れてきた。

 「安い日本」という言葉自体はすでに数年前から生まれていたが、それがコロナ禍による物流停滞と、ロシア・ウクライナの激変期とのダブルパンチで起こった世界的なコストプッシュインフレにより、「物価は上がるのに給料は上がらない」という最悪のスタグフレーションとして顕在化してしまったのだ(日本以外の国々はただのインフレ。ただし今後はどうなるか分からないが)。

 そんなご時世だというのに、自公政府は愚かにも、「急速に悪化する近隣国際情勢に対応するためには防衛力の増強が必要だ」として、増税でさらに国民生活を痛めつけようとしている。

 もちろん我が国の自主防衛体制確立のため、身の丈に合った防衛力が必要だという理由なら異存はない(そこが護憲左翼と我々との違いだ)。だがそれならまず、対米従属体制の元、役にも立たない米製モンキーモデル兵器を奴らの言い値で爆買いさせられる等の無駄を徹底的に排除するとか、或いは電通などのように税金を中抜きする中間搾取層を全分野においてことごとく一掃するだけでも、防衛用の財源くらい幾らでも調達できるようになるだろう。増税も国債も、本来は全く必要ないもののはずなのだ。

 それが出来ないのは何故か。

 結局のところ、保守からリベラルまで、国民の誰もが目先の既得権益に囚われて私利私欲に奔り、大局的な国家観に基づく長期戦略的な行動を取れなくなっている所に原因を求められよう。

 その根幹をさらに追究すれば、これまた弊会がいつも指摘している通り「大局的な国家戦略は全てアメリカにお任せ」「日本はただアメリカの言うなりに付き従っていけばいいだけ」という戦後日本人の骨の髄にまで浸み込んでしまった対米従属意識に行きつく。それも普段愛国者を気取っている保守派が率先してこの意識にどっぷり浸かっている有様なのだから、情けない事この上ない。アメリカはどこまで行っても自国第一主義の国であり、日本なんか「利用価値のある子分。いざとなりゃ捨て石にする」としか考えてないのは、ウクライナの現状を見れば明らかではないか!

 故・安倍元首相からしてそうだ。

 かつて自民党が野党だった頃、当時の谷垣総裁は「(政権復帰したら)『主権回復の日』『竹島の日』『建国記念の日』の政府主催式典をやる」と公約していた。ところが政権復帰後、実際に行われたのは『主権回復の日』の式典だけで、『建国記念の日』に至っては、後に安倍首相が「歴史の長い国では建国記念の特別式典を行っていないところが多く、革命で生まれたタイプの国は式典を華やかにやっている。日本はいにしえより国家として存在していた国だから、静かに迎えるのも一つの考え方ではないか」という、実に無責任極まりない回答を返しているのである。

 まさにこうした、政府与党の煮え切らない態度こそが日本衰退の元凶なのだ。

 「建国記念の日」のような我が国の根幹を明らかにする式典等を通じ、改めて国民全体が団結してこの国家的衰退に対処する。そんな姿勢を政府自らが率先して見せていかない限り、やがてこの国はアメリカ他諸外国に、いいように喰いものにされてしまうであろう(この情勢下では、他国だって生き残りに必死なのだ)。

 そこで二年ぶりとなるが、今年もこの時期に合わせて「建国記念の日」に関する重要ポイントを以下に再掲載したい。たとえ「しつこい」と言われようとも、これはこの国の根幹を為す一大事業なのだから。

 ――そもそもこの二月一一日という日は、今を去る事はるか二六八三年の昔、現在でいう奈良県にある大和三山が一つ、畝傍山は東南麓にあったとされる橿原宮において、畏くも我が国皇祖・神武天皇が御即位あそばされた日にちなんでいる。

 戦前、この日は「紀元節」と呼ばれ、宮中三殿での「紀元節祭」をはじめ、全国各地での神武天皇陵への遙拝式の他、小学校での天皇皇后両陛下の御真影に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる式典や、各神社での紀元節祭、さらには青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典等が各地で催され、大変賑々しい一日であったと聞く。

 だが敗戦後、この祝日は連合国軍最高司令官総司令部の命令により、無念の廃止を余儀なくされてしまう。その後現在に至るまでの経緯は、話を分かり易くするため、以下に年表形式で提示してみたい。

建国記念の日を巡る経緯

①昭和二三年

 戦後の祝祭日の法的根拠となる「国民の祝日に関する法律」が制定される。だがこの中に「紀元節」は含まれず、この法律の制定に伴って廃止された戦前の法的根拠「休日ニ關スル件」(昭和二年勅令第二五号)とともに、二月一一日はただの平日となってしまう。

②昭和二七年

 サンフランシスコ平和条約の施行に伴う日本の(形式上の)独立回復に伴い、「紀元節」復活の気運がようやく盛り上がり始める。

③昭和三二年

 自民党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が初めて提出される。しかし当時の野党第一党である日本社会党が「保守政党の反動的行為である」として強硬に反対。法案は、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了により廃案。以後この法案は、国会で実に九回にもわたる提出と廃案とを繰り返す羽目に陥る。

④昭和四一年

 名称に「の」の字を挿入した「建国記念『の』日」として、「建国されたという事象そのものを記念する日」であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては、各界の有識者から組織される審議会に諮問する、などとした妥協の産物としてようやく法案は成立する。だが戦前のような政府主催式典は実際には開催されず、あるのは全て民間のものばかりとなる。

⑤昭和五三年

 「紀元節奉祝会」を受け継いだ「建国記念の日奉祝会」が「奉祝運営委員会」を組織。政府「後援」による式典をようやく開催するが、政府閣僚の出席は無し。

⑥昭和六〇年

 新たに発足した「建国記念の日を祝う会」が、内閣総理大臣・衆参両院議長等が参列する式典の開催をようやく実現させ、「建国記念の日奉祝会」もこれに合流する。

⑦昭和六一年

 「建国記念の日を祝う会」が財団法人「国民の祝日を祝う会」に改組され、式典の趣旨から神武天皇建国の意義が除かれてしまう。以後、式典から政府閣僚の姿は徐々に消えてゆく。

⑧平成一七年

 「建国記念の日」が国民に定着したこと等を理由に式典が中止されてしまい、記念コンサートの開催のみとなる。

⑨平成一八年

 その記念コンサートもこの年が最後となり、以後政府「後援」の式典すらも全く行われなくなる。
 その後も政府の不誠実な態度は続く。

⑩平成二二年

 参議院議員通常選挙のときの公約集「自民党政策集 J‐ファイル2010」で自民党は「政府主催で、二月一一日の建国記念の日、そして二月二二日を『竹島の日』、四月二八日を『主権回復の日』として祝う式典を開催します」と宣言。だが政権奪回後も、『主権回復の日』を除き、政府自民党にこれら式典を開催する動きは無い。

⑪平成二七年

 参議院予算委員会における和田政宗議員からのこの件についての質問に対し、前述の発言が安倍首相の口から飛び出してしまう。

 この件について話題にする向きは、保守派・民族派の中でもおそらくは弊会だけになってきたように思える。

 だが昨今の国内外の危機的情勢は、むしろこうした式典を通じて国民が一丸となることを促すためにも、むしろその必要性は高まっているとさえ言えよう。

 前にも書いたことだが、我々は決して諦めない。

 自民党が政権を握り続ける限り、いや例えどんな政党がこの国の実権を握ろうと関係なく、我々はこれからも、祖国に誇りを持つ一人の日本人として「建国記念の日」政府主催式典の実施が達成されるよう、何度でも何度でも、これを訴え続けてゆく所存である。

【月刊レコンキスタ令和五年二月号掲載】